説    教  イザヤ書10章20〜23節 ヨハネ福音書6章66〜69節

「永遠の生命の言葉」

2008・09・14(説教08371236)

 今朝の御言葉、ヨハネ福音書6章66節は、最初から非常に厳しい言葉で始まりま
す。「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかっ
た」というのです。とても厳しい状況です。

この「多くの弟子たち」とはおそらく、ルカ福音書の10章1節に記されている、
主イエスが十二弟子とは別にお立てになった「七十二人」の者たちのことだと思われ
ます。この人々は主イエスがガリラヤに来られた当初から、主イエスの御跡に自主的
に従って来ていた人々です。いわば、主イエスの「取り巻き」だと言えるでしょう。
「ファン」と言っても良いかもしれない。主イエスのことが「好きで好きで仕方がな
い」という人々です。

 ところが、まさにその「七十二人」の人々が、主イエスのある御言葉をきっかけと
して、主イエスのもとから「去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」
というのです。その御言葉とは、主イエスが御自分の肉と血とを、世の罪の贖いのた
めに与える「まことのパン」であると言われたことです。十字架の出来事を告げる御
言葉です。

 改めて、同じヨハネ伝6章55節を見てみましょう。「わたしの肉はまことの食物、
わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわた
しにおり、わたしもまたその人におる」。この主の御言葉が「七十二人」の者たちの「つ
まずき」になったのでした。

 それだけではありません。60節を見ますと、十二弟子たちさえも「これは、ひどい
言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と言ったと記されています。この
「ひどい」とは「我慢がならない」という意味です。主イエスの御言葉を「我慢でき
ない言葉だ」と言って罵ったのです。十字架の言葉はとうてい自分たちには受け容れ
られないと言ったのです。そこに「つぶやき」が生じたのです。

 このことは、何を示すのでしょうか。もし聖書が単なる「信仰の偉人」「愛の人イエ
ス」について語る書物ならば、このようなことは隠すはずです。主イエスにとって汚
点でしかない出来事(スキャンダル)だからです。世の人々は言うでしょう「この人
は自分のファンの心さえ繋ぎとめておくことができなかった」と。もしこれが芸能人
や政治家ならばこの時点ですでに失格です。「この人にはリーダーになる資格はない」
と批判されるでしょう。

 もし私たちが、この場面に居合わせたならどうでしょうか。私たちもやはり同じよ
うに主イエスに「つまずき」「失望し」「去って行った」のではないでしょうか。私た
ちは主イエスに対しても自己中心です。主イエスの恵みの御支配のもとにあることを
喜ばず、逆に、主イエスが自分の言うとおりにしてくれることを願うのです。その「願
い」が「裏切られた」と感じたとき、主イエスから「去って行って、もはや行動を共
に」しなくなるのです。「大好きだったイエスさまに裏切られた」「私はつまずいた」
と言って主イエスに背を向けるのです。その私たちの姿の延長線上に、あのゴルゴタ
の丘に続く道(ヴィア・ドロローサ)で、主イエスに向かって「十字架につけよ」と
叫んだ群衆の姿があるのです。

 それならば私たちは、みずからの罪を深く思うことなしに今朝の66節以下の御言
葉を読むことはできません。この「多くの弟子たち」こそ、ほかならぬ私たち自身の
姿なのではないか。私たちが主イエスの「弟子」であるのは、主イエスが自分の思う
とおりに動いて下さる限りにおいてではないのか。私たちは、自分の意に添わぬこと
を、主がおっしゃったり、したりしないという、条件つきで、主イエスに従っている
だけなのではないのか。

 それは結局、主イエスに従っているのではなく、自分に従っているのです。神を信
じているのではなく自分を頼みとしているのです。人間関係にもこの矛盾が付き纏い
ます。私たちが誰かを「愛する」という場合、それは条件つきである場合がほとんど
なのです。相手を愛しているようでいながら、実は自分自身の「願い」を相手に突き
付けているだけのことが多いのです。それこそ、三浦綾子さんの小説「氷点」にある
ように、私たちの愛は「他者愛に名を借りた自己愛にすぎない」ことがほとんどなの
です。しかも、それが私たちには見えないのです。だから改めて今朝の御言葉に接す
るとき、大きな戸惑いを覚えるのです。少なくとも、ここに自分の姿があるとは思い
たくないのです。

 そこで、続く67節に、主イエスはこう語っておられます「そこでイエスは十二弟
子に言われた、『あなたがたも去ろうとするのか』」。この「あなたがたも去ろうとする
のか」とは、直訳しますと「あなたがたも(わたしから)離れることを願うのか」で
す。言い換えるなら、自分の願い(欲望)と神の言葉と、そのどちらをあなたは選ぶ
のか?と主は問われるのです。この主の問いにシモン・ペテロが十二弟子を代表して
答えます。68節と69節です「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。
永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者である
ことを信じ、また知っています」。

 もとより、ペテロをはじめとする十二弟子たちは、主イエスのもとから離れ去って
行った多くの人々に対して、勝ち誇ったような思いでこう語ったのではないのです。
むしろ、彼ら「七十二人」の「つまずき」は彼ら自身の「つまずき」でもあったので
す。「あなたは御言葉にではなく、実は自分の願いに従っているだけではないのか」と
改めて問われたとき「いえ、それは違います」と自信と誇りをもって答えうる弟子た
ちではなかったのです。

 それはなにより、この弟子たちの中に、あの「イスカリオテのユダ」がいたことか
らもわかります。ユダだけではない、この立派な答えをしたペテロも他の弟子たちも
みな、主の十字架を目前にして、恐れのあまり逃げ去ってしまったのです。キリスト
から離れ去った罪においては同じだったのです。それならば、あの去って行った「七
十二人」の人々と、この十二弟子たちとの違いはどこにあるのでしょうか。このこと
がとても大切なことです。

 その違いは、ただひとつだけなのです。そのただひとつが限りなく大切なのです。
それは、彼ら十二弟子には、主イエスを「キリスト」(神の子・救い主)と信じて教会
に連なる「信仰」があったことです。まさに彼らはこの「信仰」において、単なる主
イエスのファンではなく、まさに「弟子」であり続けたのです。罪をおかさず、言葉
も行いも何もかも立派だったから、キリストの「弟子」とされたのではありません。
むしろ逆です。「イスカリオテのユダ」もいた、主イエスから去っていった罪も同じで
あった。その彼らがなお「弟子」であり続けたのは、ただ「信仰」によってのみなの
です。それ以外になにも理由はないのです。しかもその信仰も、聖霊なる神の賜物で
あって、キリストの恵みです。この「信仰」のあるなしが「ファン」と「弟子」とを
分ける唯一の徴(しるし)なのです。

 「愛」に名を借りた私たちの自己愛の身勝手さと愚かさ、それがはっきりと現れて
いる御言葉なのです。私たちこそ、キリストに従うと言いながら、実は自分の心に従
い、神の言葉を聴いていると言いながら、実は自分の願望を聞いているにすぎないの
です。それがあらゆる民族間や国々の分裂や扮装や戦争さえも惹き起こすのです。ま
さしくその罪の私たちのただ中に、主は救いの御言葉を語って下さる。ペテロは自分
の強さのゆえにではなく、まさに罪のただ中で今朝の告白をしているのです。「主よ、
わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなた
です」と。

キリストへの罪が無いところ、私たちが自分を誇りうる所で、この信仰告白がなさ
れたのではなく、大きな罪のただ中で、この告白にペテロは(弟子たちは)生きたの
です。生き続けたのです。切なのです。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きま
しょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖
者であることを信じ、また知っています」と。

 それは、この告白をていねいに読めばすぐにわかることです。ペテロは(弟子たち
は)「永遠の命の言をもっているのはあなたです」と告白しているのです。自分たちが
持っているのではない。ただ主イエス・キリストのみが、私たちを生かすまことの生
命を持っておられる。だから、あの去って行った人々に較べて、自分たちは「命の言」
を持っているから偉いのだ、だからあなたに「従います」などとペテロは語っていな
いのです。

 そうではなく、私たちにはその「命の言」はありません。私たちには、あなたの「弟
子」となる資格や、ふさわしさなど、どこにもありません。しかしあなたは、まさに
その、ふさわしさなど微塵もない私たちに、あなたの「命の言」を与えて下さる。そ
の「永遠の命の言」によって、死すべき私たちをあなたの復活の生命に、信仰の喜び
に甦らせて下さる。御前に立ちえない私たちを、御言葉によって立ち上がらせて下さ
る。そのことを、私たちは「信じます」とペテロは言うのです。それがこの告白なの
です。

 それは、私たちの教会に受け継がれた「使徒信条」や「ニカイア信条」そして「1890
年(明治23年)日本基督教会信仰の告白」などでも同じです。信仰告白はかならず
二つの主語を持っています。それは、三位一体なる神と、私たちです。まず神の子イ
エス・キリストが、私たちの救いのためにして下さった救いの御業が告白されます。
そこではキリストのみが主語です。たとえば使徒信条では「主は、聖霊によりて宿り、
おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、死にて葬られ、陰
府に降り、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座したま
えり」と告白されます。主語は三位一体なる神です。そしてその神の救いの御業を受
けて、そこに初めて私たちが主語として出て参ります。それは「われ信ず」(われらは
信ず)という主語です。だからこの主語は「信仰」とひとつでしかありません。信仰
においてのみ成り立つ主語なのです。

 今朝のペテロの告白こそ、まさにそれでした。キリストの御言葉が、キリストの救
いの御業が先立っています。それが絶対不変の揺るがぬ救いの「主語」です。だから
それは「永遠の命の言」と呼ばれます。十字架による救いの出来事です。「わたしの肉
はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」と主が語られたことです。主が(永
遠の神の御子が)私たちのために御自身の全てを献げ尽くして下さった。この「まこ
とのパン」を主の御身体なる教会で受けて(食べて)私たちは値なしに神の民とされ
ます。キリストのみがそこでは「主語」なのです。

 私たちに求められていることは、私たち一人びとりが、キリストの十字架の恵みを
「アーメン、われ信ず」と告白することにおいて「信仰による主語」として立つ者と
なることです。「イエスは主なり」と信ずる信仰です。この「信仰」のないところに、
人間は(いかなる意味においても)主語(主体)とはなりえないのです。三位一体な
る神が御子イエス・キリストにおいて全世界に、私たちの歴史のただ中に成し遂げて
下さった救いの御業の中でこそ、はじめて私たちは「主語」となりうるのです。人間
として真に生きうるのです。もはや私たちの永遠の「主」は十字架のキリストであり、
罪と死の支配こそ「去った」ことを知らしめられるのです。

 キリストの「弟子」たる資格を何ひとつ持っていなかった点においては、あの去っ
て行った「七十二人」も十二弟子も同じでした。違いはただひとつ。その罪の中で、
その弱さの中で、その愚かさの中で、十二弟子たちは、ただひたすらに「永遠の命の
言をもっているのはあなたです」と告白し、主のみを信じたことです。この「信仰」
が彼らの全存在を、キリストの主権から決して離れることのないものとしたのです。
そこに教会が建てられていったのです。そこに福音が全世界に宣べ伝えられていった
のです。

 秋を迎え、私たちは10月31日に第491回目の宗教改革記念日を迎えます。1517
年10月31日、マルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルク教会の門扉に「95
ケ条の提題」を掲げて宗教改革が始まりました。宗教改革は何よりも礼拝の改革です。
御言葉が正しく宣べ伝えられ、キリストの御臨在のみが崇められる、真の礼拝を回復
したのです。その改革の目的をもしたった一言で現わすなら、それは今朝のペテロの
信仰告白であったと言えるのです。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょ
う。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者で
あることを信じ、また知っています」。

 十字架による贖い主なるキリストのみが、永遠に変ることのない私たちの罪の唯一
の贖い主であり、生命の主であられます。この主のもとにいま、私たちはあるがまま
に招かれているのです。この主の御手から「永遠の命の言」を戴いているのです。そ
れを戴きつつ、死に打ち勝った復活の生命に覆われつつ、私たちは主の御業に仕える
者とされています。教会に連なる者とされています。主の御言葉を聴いて信じた者は
全て、まさにキリストのみが唯一の「主」である祝福の生命を戴いているのです。生
きるにも、死ぬにも、決して変らぬ「唯一の慰め」に生きる者とされているのです。
私たちが、私たち自身の所有ではなく、永遠の贖い主イエス・キリストのものである
ことです。

 私たちを救い、新たになし、生かしめる「命の言」は、ただキリストにあります。
それゆえにこそキリストは「神の聖者」(私たちを罪の支配から解放して下さるかた)
と呼ばれます。私たちはそれを「信じ、また知っている」群れなのです。
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