説    教    詩篇104篇30節   ヨハネ福音書6章63〜65節

「人を活かしめる聖霊」

2008・09・07(説教08361235)

「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。これが今朝、私たちに与えられた主の御言葉です。これを聴いて私たちはどういう感想を持つでしょうか。「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない」。これは極端な過激な言葉だと感じるのではないでしょうか。私たちは「肉」(肉体)においても生きているからです。「肉」(肉体における生活)もけっこう大事だと思っているからです。

主イエスはもちろん、私たちの「肉」(肉体における生活)を軽んじて、こう語っておられるのではありません。「霊」と同様「肉」(肉体)も神がお造りになったものです。尊いものであることに変わりはないのです。さらに言うなら「肉」(肉体)は「霊」の働く器であり、その器なくして「霊」は生きた働きとはなりえません。

譬えて言うならば、風と風車の関係に似ています。「霊」は風として、「肉」(肉体)である風車を回す力になります。両方とも必要不可欠なのです。「霊」は「肉」においてはじめて目に見える働きとなり、また「肉」は「霊」なくして動くことはできません。そのどちらも大切であって、そこに優劣をつけることなど、本来できないことなのです。

しかし、今朝のこの63節の御言葉において、主イエスははっきりと「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない」と言われます。これに私たちは改めて戸惑わざるをえません。

教会の歴史が始まったころ“グノーシス主義”と呼ばれる異端がありました。それは、人間にとって尊いのは「霊」だけであり、「肉」(肉体)は穢れたもの、無意味なものだという教えでした。そこから使徒信条の「身体のよみがえり」の信仰を否定し、キリストの救いを「霊」の次元だけで理解しようとしました。すると信仰は抽象的な生命の無いものになります。このようなグノーシス主義が、キリストの復活を否定し、教会を否定し、聖餐を否定し、ついには信仰そのの否定へと繋がっていったのは当然のことでした。

そこで、まさに今朝のこのヨハネ伝6章63節の御言葉は、そうしたグノーシス主義の「偽教師たち」が、さかんに引用した言葉であったのです。彼らにしてみれば「主イエスもまたはっきり『霊』だけが尊くて、『肉』(肉体)は何の役にも立たないと、仰っているではないか」と、まさに「我が意を得たり」との想いで、今朝のこの御言葉を振りかざしたのです。

現代においてさえ、ヨハネ福音書の研究者たちの間には、この福音書はグノーシス主義の影響を強く受けたものであって、いわゆるギリシヤ的な霊肉二元論の立場に立つものだという指摘がしばしばなされます。つまりヨハネ伝は主イエスの御言葉をグノーシス的に解釈し直した文書だという主張です。キリストはいわば付録であって、事実上はグノーシス主義の文書なのだ、という主張さえなされるのです。

もちろん、そうではありません。それは何より今朝の御言葉を正しく読めばはっきりとわかることです。「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない」と主イエスは言われました。しかしそのすぐ後で「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と語られました。これが、とても大切なことです。と申しますのは、私たちは「霊」と聞くと、何か漠然としたもの、実体のないものを考えますが、主イエスはそうではないのです。

主イエスが語られる「霊」には、はっきりとした形があり、生命があり、力があるのです。なぜならその「霊」とは、主イエスが私たちに語られた御言葉そのもののことだからです。言い換えるなら、主イエスの御言葉が宣べ伝えられるところ、そこに私たちを生かすまことの「霊」があるのです。だからこの「霊」は、主イエスの御言葉によって私たちに働く“生命”であり“救いの力”そのものなのです。

同様に、私たちはこの「霊」が「聖霊」のことを指していることに気がつきます。それがはっきりわかるのが今朝のこの御言葉です。主イエスの御言葉と共に私たちに働き、私たちに新しい生命を与える「霊」、それはまさに「聖霊」にほかなりません。キリストの十字架の贖いを否定するグノーシスの教えは「聖霊」については何も語りません。否、語ることができないのです。ただ主イエス・キリストのみが「聖霊」を私たちにお示しになり、お与えになることができる唯一のおかたです。「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない」。この「霊」とは「聖霊」のことなのです。私たちを救いたもう、神の力強い働き(御業)であります。

つまり、主イエスはここで「人を真に生かすもの、それは聖霊である」と語っておられるのです。「聖霊」を受けなければ、人は真に生きた存在にはならないと言われるのです。私たちを救いたもう神の力強い働きなくして、人は真に生きたものとはならないのです。そしてその「聖霊」は主イエスの語られた御言葉によって、御言葉と共に私たちに働き、主の御身体なる教会を通して私たちに与えられるのです。漠然とした実体のない「霊」ではなく、「聖霊」には明らかな生命があり、救いの力があるのです。聖霊を受けた者は復活の生命に甦らされるのです。

それならば、ここではじめて私たちは心の底から、今朝の主イエスの御言葉に「そのとおり」「アーメン」と同意する者とされているのです。この「霊」が唯一の聖霊でありますならば、まさしく「人を生かすものは霊(神の聖霊)であって、肉は何の役にも立たない」ことは明らかです。私たちの教会が世々の聖徒らと共に告白するニカイア信条の中にも、聖霊について「わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます」と告白されています。「聖霊」はすべての霊の中で唯一、私たちに生きるべき真の生命を与え、「主」と称えられるべきおかたなのです。

そこで、聖霊が「与えられる」とは、神御自身が私たちの死すべき罪の身体に触れて下さることです。何によってか。今ここで教会の礼拝と聖礼典を通してです。私たちのために主イエスが語られた福音の御言葉によってです。主の御身体なる教会において福音が正しく宣べ伝えられ、主の御名のみが崇められるとき、そこに私たちの死すべき身体が復活の生命に覆われるという(救いの)出来事が起こります。あのナインの寡婦の息子の棺に、主イエスだけが御手を触れて下さいました。そして墓に赴く葬列を停めて、悲しむ寡婦に「もう泣かなくてよい」と語って下さいました。そして息子を甦らせて下さいました。今まさしくその救いの出来事、復活の出来事が、主の御身体なるこの教会において、主の御言葉である福音によって、いま私たち一人びとりに現わされているのです。

だからこそ、私たちが共に深く心に留めざるをえないのは、続く64節以下の御言葉です。「しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」と主が言われたことです。この「霊」とは神なる「聖霊」ですから、私たちに求められていることは、この神なる「聖霊」を「信じる」ことです。ここでこそ「信じない者ではなく、信ずる者になりなさい」と主は仰せになります。主イエスみずから、信ずる者の永遠の幸いを告げて下さいました。その永遠の幸いの告知の中でこそ、主はここで「しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」と、私たちの不信仰を指摘して下さるのです。

そして、その恵の中でこそ、あなたは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、私たち一人びとりに告げていて下さいます。64節には「イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである」と記されています。これは使徒(福音書記者)ヨハネ自身が記した注釈です。使徒ヨハネはここで、存在の深みから打ち砕かれる経験をしています。それは、主イエスはやがて御自分の身に起こる十字架の出来事を全て知られた上でこれを語っておられるということです。これを聴いている者の中に、あのイスカリオテのユダもいたのです。「弟子」として召された人々の中に、主を裏切ったユダさえ含まれていたのです。このことを主イエスは「知っておられたのである」とヨハネは記しているのです。

それは、いったい何を意味するのでしょうか。たとえば、この飛行機に乗れば墜落するとわかっていて、敢えてその飛行機に乗る人はいないでしょう。ビルが崩壊するとわかっていて、そのビルに出勤する人はいないでしょう。もし事前に大きな危険が予知できれば、それを回避することは当然です。しかし主イエスはすべてを「知っておられ」たにもかかわらず、御自分の身に起こる全ての御苦難を、十字架の苦しみと死と葬りを回避なさいませんでした。私たちのために御苦難の杯を一滴も残さず飲み干して下さったのです。

私たち人間にとって、罪ほどわかりづらいものはありません。しかしキリストの十 字架を知るとき、私たちの罪は、神の独り子が十字架にかかりたまわなければ贖われ えなかったほど大きなものだと知るのです。罪の贖いは全く罪のない完全な清さを持 ったかたのみがなしえます。しかもその完全な清さをもって罪のただ中に降りたもう たおかたであらねばなりません。つまり「まことの神」にして「まことの人」であら ねばなりません。そのおかた(主イエス・キリスト)のみが私たちの罪の唯一完全な 贖い主なのです。主はまさにそのような唯一の救い主として、私たちのために罪の贖 いと救いの御業をなし遂げて下さったのです。

それは私たちに対する極みまでの愛から出た完全な自己犠牲でした。だからこそ主 は十字架の出来事の全てを「知っておられた」上で、御自身を献げ尽くして下さった のです。このことを、使徒ヨハネはヨハネ第一の手紙4章9節以下に、こう語ってい ます「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして 下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わ たしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの 罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。

それならば、私たちは今朝の御言葉を通して、ただ神の御名を崇めるほかはないの です。信仰とは「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない」ことを、 主イエスの御言葉によって知ることです。この「肉」とは私たちの古き罪の身体(生 活)です。どんなに肉体が健康であっても「霊」において罪の支配にあるなら、その 人は本当の生命を持っていません。その逆に、たとえ肉体はどんなに病気に蝕まれて いても、寝たきりであっても、教会の交わりの内にキリストに結ばれているなら、そ の人の内にはまことの生命があり、その生命はたとえ肉体の死によっても失われるこ とはないのです。なぜなら、その生命はキリストの御復活の生命だからです。

信仰とは、教会生活をするとは、礼拝者として生きるとは、私たちが「肉」なる自 分の生命を捨てて「霊」なるキリストの復活の生命に生かされることなのです。それ こそ「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない」のです。私たちは「主 であり、命を与える聖霊」を信じます。その歩みはどこに始まるのか。私たちが努力 精進し、修行を積み、学問をして、その後に得るのでしょうか?。そうではないので す。それはキリストが御自分の御身体なるこの教会において、信じる私たち全ての者 に豊かに与えておられる生命なのです。

それは「恵みの賜物」であり、私たちはそれを与えたもうおかたを誇るのみです。 私たちは、ただ救い主なるキリストの限りない愛と恵みを、喜び、誇り、讃美するの みです。たとえ私たち自身がいかに弱い者であっても、キリストの復活の生命は私た ちに真の生命を与え、死の淵にある私たちの「肉」を活かしめ、立ち上がらせて、キ リストの恵みの主権のもとを、心を高く上げて歩む者として下さるのです。

キリストを裏切り、死に至る罪をおかしたのは、ユダだけではありません。私たち も同じなのです。ユダの罪は私たちの罪です。ユダは私たちの代表です。ペテロも他 の弟子たちもみな、主イエスの十字架を前にして逃げ去ったのです。取り返しのつか ぬ醜態を晒したのです。しかし、主は今日の御言葉にあるように「(すべてを)知って おられた」のです。それは、まさに私たちのために、あのユダのためにも、主は“救 い主”となって下さったことなのです。「肉」(罪)によって死んでしまった私たちを、 主は「霊」(聖霊)によって贖い、赦し、復活の生命へと招いて下さったのです。

まことにその主の恵みによって、私たち一人びとりが、いまここから主の「霊」に よって遣わされてゆきます。「聖霊」が豊かに私たちに与えられています。いまそのこ とを信じ、その恵みのゆえに主を讃美しつつ、世の旅路へと、心を高く上げ、勇気を もって、出てゆく私たちでありたいと思います。