説    教   エレミヤ書17章12〜13節 ヨハネ福音書6章60〜62節

「昇天の主と我ら」

2008・08・31(説教08351234)

 「わたしの肉はまことの食物、わたし血はまことの飲み物」と語られた主イエスの
御言葉は、人々の間に大きな波紋を広げ「つぶやき」の声を起こしました。今朝の60
節を見ますと「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と
記されています。主イエスの「弟子」たちの間にさえ、この「つぶやき」の声が起こ
ったのです。

 この「ひどい言葉」とは「我慢できない言葉」という意味です。もう主イエスに「我
慢ができない」と人々は(弟子たちでさえ)「つぶやいた」のです。主イエスを心の中
で審き、主イエスに背を向けたのです。事実66節には「それ以来、多くの弟子たち
は去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」と記されています。この人々
は再び戻って来ることはなかったのです。

 私たちは、こういう事をもあるがままに記している聖書の言葉に驚かざるをえませ
ん。ある意味でこれは、キリストについてのスキャンダルです。打ち砕かれなくては
聴きえない御言葉です。なによりもここには、自分を「主」として主イエスを審き、
「我慢ができない」と自己中心に御言葉を聞く私たちの罪が現れています。耳に心地
よく好ましい限りにおいては御言葉を喜んで聴くけれど、いったんそれは「我慢でき
ない」と思うや否や、一転して主イエスに背を向け、離れ去って行くのです。そのと
き、私たちはいったい何者なのでしょうか。

 私たちは、本当に神の言葉によって生かされているのでしょうか。打ち砕かれてい
るのでしょうか。私たちこそ生活の中の至る所で「これは、ひどい言葉だ」と「つぶ
やく」罪を犯してはいないでしょうか。神の言葉に歩む信仰の健やかさを失うとき、
キリストの恵みの主権を見失い、おのれが「主」になるとき、私たちはいとも簡単に
「つぶやき」の罪を犯します。だからこそ今朝の御言葉は、私たちが改めて打ち砕か
れることなしに、聴くことのできない御言葉なのです。

 主イエスは61節に「弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに
言われた」とあります。主は私たちの心の奥底にある隠された思いをも、すべて知り
たもうおかたです。主は私たちの「つぶやき」をも聴いておられます。その主イエス
が私たちに言われる「このことがあなたがたのつまずきになるのか」と…。ここにも
うひとつ「つまずき」という言葉が出てきました。「つぶやき」と「つまずき」これは
どちらも私たちが、深い考えもなく使っている言葉です。教会の外の人々は余り使わ
ない。むしろキリスト者である私たちが軽率に用いる言葉です。

 「軽率に」と申しますのは、私たちはよくこれを、自分の周囲を見わたしながら使
うからです。教会の中でこういう風評を耳にした。よくない噂を聞いた。そういう時
に、ああ、私はあの人の「つぶやき」を聞いてしまった、などと言うのです。そして、
そのことによって「つまずき」ました、などと言うのです。そういう場合によく使わ
れる言葉に(なぜか)なっています。

 これはほとんど、隠れた教会専門用語になっているかのごとき観がある。聖書の言
葉を用いて自分の周囲を見わたすのです。「祝福と呪い」が同じ口から出るのです。そ
してその「つぶやき」や「つまずき」が多ければ、もう自分はこの教会には「いられ
ない」(いたくない)などと思ったりもするのです。まさに今朝の御言葉の「多くの弟
子たち」のように、キリストのもとから離れ去ってゆこうとする自分をさえ、私たち
はこの二つの言葉によって、迂闊にも正当化してしまうのです。

 主イエスは、そのような軽率な意味で「つぶやき」また「つまずき」という言葉を
私たちが用いることをお許しになりません。なぜなら「つぶやき」も「つまずき」も、
他の誰でもなく私たち自身の「罪」にほかならないです。私たちが自分の周囲を見わ
たして使う言葉などではなく、神の前での深い悔改めと、キリストの恵の御手への立
ち返りなくして用いえない、室に重い言葉なのです。

 もともと「つまずき」と訳された言葉は“スカドロン”というギリシヤ語です。誰
もが耳にする「スキャンダル」という英語の語源にもなりました。その本来の意味は
「ある人を故意に倒れさせる」という意味です。つまり「これは、ひどい言葉だ」と
申した人々は、主イエスを「故意に倒れさせよう」としたのです。それが「つぶやき」
であり「つまずき」なのです。そしてこの人々の声は、やがて大祭司カヤパの中庭に
おいて、主イエスに向かって「十字架につけよ」と絶叫する声とひとつになりました。
まさにこの「つまずき」(スカンドロン)を主は担われて、あのゴルゴタへと続く十字
架の道を登ってゆかれたのです。

 その意味ですでにここに、主イエスの十字架の歩みが始まっています。主は私たち
の「つぶやき」と「つまずき」の罪を、いま十字架を先取りして担いたもうのです。
私たちの罪を放置なさらないのです。だからこそ主は、私たちの「つぶやき」の罪に
耳を傾け、また私たちの「つまずき」の罪にまなざしをお留めになります。だからこ
そ改めて「このことがあなたがたのつまずきになるのか」とお問いになったのです。
この問いには、まさに主の十字架の重みがかかっているのです。

 私たちが、自分の周囲を見わたして「つぶやき」「つまずき」「私は傷けられた」と
叫び訴えるとき、そして仲間うちで批判を始め、人を審く誘惑に屈するとき、自分の
「主」としてスキャンダルを流し、他者を傷つけてしまうとき、主はまず黙って、そ
のような私たちのその大きな罪(病んだ魂)を、十字架に担いつつ「このことがあな
たがたのつまずきになるのか」と問うて下さった。この主の御言葉において、改めて
私たちは「つぶやき」「つまずき」の罪を犯す者は私たち自身だということを知らしめ
られるのです。私たちが勝手な想いで使う言葉ではありません。主イエスが十字架の
恵みをもって、私たち一人びとりに問うておられる御言葉なのです。十字架の主の御
前に、悔改めと立ち帰りなくして、聴きえない御言葉なのです。

 まさしく、その十字架の恵みにおいてこそ、主は私たちに続く62節の言葉を語っ
て下さいます。「それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか」
と。私ごとで恐縮ですが、私は最初今日のこの説教で60節から65節までを扱う予定
でした。それを62節までにしたのは、この62節に、私たちの「つぶやき」と「つま
ずき」の罪を贖い、新たな生命に甦らせて、共に健やかにキリストの教会に生きる者
として下さる、福音の確かな生命が輝いていることを見出したからです。それは“主
イエス・キリストの昇天”の出来事です。主が十字架におかかりになったのち、甦ら
れ、天に昇られたという出来事です。

 私たちは、毎週の礼拝のたびに使徒信条を告白しています。おそらく初代教会にお
いてそうであったように、私たちもまた使徒信条を歌うことによって告白します。そ
の中に「(主は)三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の
右に座したまえり」というくだりがあります。ともすると私たちは、まるでお題目の
ように無意識で歌っているかもしれない。しかしここには、私たちの信仰生活に関わ
る最も大切なことが告げられているのです。

 “主イエス・キリストの昇天”の出来事を、私たちはどう理解しているでしょうか。
何よりも今朝のこの御言葉において、主みずからはっきりと語っておられます。「もし、
人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか」と…。この「人の子」とはイ
エス・キリストのことであり「前にいた所」とは「天」(の父なる神の御もと)です。
そこに「上るのを見る」とは、1890年の信仰告白に明確に告げられているように「我
らが神と崇むる主イエス・キリスト」と告白し、私たちが“キリストの昇天”の目撃
者(証人)になるということです。

 逆に申しますなら、私たちが隣人に対して「つぶやき」と「つまずき」の罪を犯す
のは“キリストの昇天”の恵みがわかっていないからです。それが空言になっている
からです。「どうなるのか?」と主が問われた元々のギリシヤ語は「立ちえないではな
いか」という言葉です。「つぶやき」と「つまずき」に留まっているなら、私たちはキ
リストの恵みの御支配のもとに「立ちえなく」なるのです。そうであってはならない
と主は言われます。罪のもとに立つのではなく、私の恵みのもとに「立つ」者になり
なさいと主は言われる。私たちはそこでしか、健やかに生きえないからです。自らを
も他者をも、ただキリストの恵みのもとでしか健やかに生かしえず生きえない私たち
なのです。

 ローマ書6章12節以下を心にとめましょう。「だから、あなたがたの死ぬべきから
だを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体
を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者と
して、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。な
ぜなら、あなたがたは律法のもとにあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配
されることはないからである」。

 私たちは、主が御自分の昇天について語っておられる御言葉を改めて聴くべきです。
主は今朝の62節で「(あなたがたが)人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうな
るのか?」と問われます。キリストは昇天において新しい所に行かれたのではなく、
「前にいた所」(父なる神の御もと)に帰って行かれたのです。それこそが「天」なの
です。だから「天」とは聖書において「神の御支配が行われるところ」です。主はそ
の「神の御支配が行われるところ」から世に来られ、ただ「神の御支配」を世に現わ
され、そして「神の御支配が行われるところ」にお帰りになったのです。それが主の
「昇天」ということです。

 主は同じヨハネ伝の14章1節以下に、こう語っておられます「あなたがたは、心
を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、す
まいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あ
なたがたのために場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができ
たならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあ
なたがたもおらせるためである」。

 私たちはこの祝福を知る者として集められているのです。「心を騒がせないがよい」
とは「つぶやくのを止めなさい」という言葉です。「神を信じ、またわたし(イエス・
キリスト)を信じ」るところでこそ、私たちの「つぶやき」の罪は打ち砕かれるのです。
しかも私たちはそのキリストを、「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あ
なたがたをわたしのところに迎えよう」と言われる“昇天の主”と信じ告白します。
その“昇天の主”とはいかなるお方か、それは、私たち全ての者のために、十字架に
かかられ、死んで葬られ、復活したもうた主イエス・キリストです。

 主は私たちの救いのために天から降られ、十字架への道を歩み、私たちの恐るべき
罪の贖いをなし遂げて下さいました。その主は、私たちが生きるべき復活の生命の初
穂として甦られ、まさにその「十字架と復活の主」として再び天にお帰りになったの
です。それは「あなたがた」(私たち)のために「場所を用意するため」です。その「場
所」こそ「天の国籍」「神の御支配が行われるところ」です。だから主は、そこは「わ
たしのところ」「わたしのおる所」だと仰せになる。そこに「あなたがたをおらせるた
め」だと言われるのです。

 それならば、今朝のヨハネ伝6章62節には、私たちの想像も超えた限りない祝福
が告げられているのではないでしょうか。ここで主は「人の子が前にいた所に上るの
を見」るのは、まさに「あなた」なのだと告げておられるのです。あなたは、私があ
なたのために、天に「場所」を備えるために十字架にかかり、復活して、天に昇った
ことの「証人」とされているではないか。その、あなたが「神を信じ、またわたしを
信じ」るとき、あなたはもはや“罪の支配”のもとにはおらず、永遠の神の祝福と御
支配のもとに「立つ」者とされているではないか。それこそが私たちの「立つ」(生き
る)べき場所ではないかと、主は告げておられるのです。

 私たちは「復活と昇天の主イエス・キリスト」を信じます。だから確信することを
許されています。信じる幸いを与えられています。それは、私たちはいつも十字架と
復活の主が共にいて下さる「ところ」に生活の「場所」を持つ者とされているという
ことです。「つぶやき」と「つまずき」の罪の下にではなく、私たちのために永遠の祝
福の生命を与えて下さった「復活と昇天の主イエス・キリスト」の恵みの下に生きる
者とされているのです。そこにおいてこそ、私たちはいま改めてはっきりと主の御声
を聴きます。「子よ、汝の罪、赦されたり」との主の御声を。

 どうか、共に心を高く上げ、キリストの恵のもとに堅く「立って」生きる私たちで
ありたいのです。「つぶやき」と「つまずき」の愚かさをかなぐり捨て、キリストの恵
みと祝福のもと、御子とは背に養われ続けて参りましょう。愛する同胞に福音を力強
く宣べ伝えてゆく群れを建てて参りましょう。

 キリストは、この地上においてと同様、天においても、永遠に私たちの「主」とな
られたのです。私たちはいまこの地上のあらゆる戦いの中で重荷を負いつつ、しかも
その戦いの中でさえも、キリストの主権が私たちを最後まで力強く支え、慰めと勇気
と平和を与え、私たちの信仰を完成へと導き、やがて主が再び来られる時、喜びと感
謝と畏れをもって、御前に立つ者として下さるのです。

ともにコロサイ書3章1節を心にとめましょう。「このように、あなたがたはキリ
ストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリス
トが神の右に座しておられるのである」。そして4節「わたしたちのいのちなるキリ
ストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう」。