説   教   エゼキエル書3章1〜3節 ヨハネ福音書6章55〜59節

「まことの食物なるキリスト」

2008・08・24(説教08341233)

 主イエス・キリストのその御言葉を聴いたとたん、その場にいた人々は騒然とした
のでした。それは主が「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物で
ある」と仰せになったことです。ある安息日の、カペナウムの会堂における出来事で
した。

 先に主イエスは、同じヨハネ伝6章51節において「わたしが与えるパンは、世の
命のために与えるわたしの肉である」と語られました。今朝の御言葉においてはさら
に明確に「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」と言われるの
です。これが聴く人々をして躓かせたのです。「この人はいったいどうやって、自分の
肉を食べさせると言うのだろうか」と呟いたのです。

 言葉というものは、一方通行では対話とはなりません。しかし主イエスのこの御言
葉は人々にとって、対話の余地のないもの、理解を超えたもののように受止められた
のです。事実この後の60節を見ますと「弟子たちのうちの多くの者は」とあります
から、主イエスの弟子たちでさえ呟いたのです。「『これは、ひどい言葉だ。だれがそ
んなことを聞いておられようか』」と申したのです。この「ひどい言葉」とは「我慢の
できない言葉」という意味です。

 ルカ福音書の10章1節によれば、主イエスは十二弟子とは別に「七十二人をお選
びになった」とありますから、このとき呟いたのは必ずしも十二弟子だけではなかっ
たかもしれない。しかし事実として「キリストの弟子」と呼ばれる人々でさえ「主よ、
あなたのこの言葉には、もう私たちは、我慢ができません」と申したのです。事実、
さらに後の66節を見ますと「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイ
エスと行動を共にしなかった」と記されています。今朝の主イエスの御言葉は、多く
の弟子たちを、主イエスから離れ去らせる結果になったのです。

 それは、なぜなのでしょうか。そもそもキリストの言葉を聴いて、キリストをさえ
審こうとする私たちとは、いったい何者なのでしょうか。御言葉を理解できないこと
は悪いことではありません。理解できないのなら主にお訊ねすれば良いのです。さら
に主イエスに近づけば良いのです。主イエスの導きを求めれば良いのです。ところが
「弟子」と言われていた人々でさえ、主に近づくことをやめて、むしろ主から離れる
道を選んでしまったのです。ここに、私たちの罪の姿が現われているのではないでし
ょうか。

 まさに今朝のこの御言葉を境として「弟子」と言われていた人々のほとんどが主イ
エスから離れ去り、再び戻って来ることはありませんでそした。これは大変なことで
す。それは同時に、私たちが本当にいま、神の言葉を“聴いて生きているか?”とい
うことの問いなのです。なぜこれらの人々は、主イエスから離れ去っていったのかと
いうことです。

 単純にひとつのことを考えるなら、それは52節に人々が「この人はどうして、自
分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」と申した事柄に、主イエ
スの「弟子」と言われる人々さえ「躓いた」ということではないでしょうか。ユダヤ
の人々が主イエスの御言葉を律法に反するものだと捉えたように、「弟子」と呼ばれる
人々もまた、主イエスの御言葉が律法に違反するものだと感じたのです。つまり主イ
エスを捨てて律法を選んだのです。

 そこで私たちは、使徒パウロが第一コリント書の中で、律法のことを「古き人」ま
た「罪の力」と語っていることに心を留めねばなりません。律法それ自体清く正しい
ものですが、それは「罪の力」に勝ちえない「古き人」(古き契約)であって、主イエ
ス・キリストの福音の来臨とともに、律法の本質は「(一時的な)養育係」にすぎない
ことをパウロは明らかにしています。パウロによれば律法は、私たちをキリストへと
導く「養育係」に過ぎないのであって、キリスト御自身が私たちのもとに来られた以
上、もはや律法の「古き時」は過ぎ去り、御言葉と聖霊による「新しい時」すなわち、
キリストの恵みの御支配が始まったのです。

 そこで、問われていることは、いま私たちはどちらの「時」に生きているのかとい
うことです。律法の支配する「古き時」か、それとも御言葉と聖霊の支配する「新し
い時」か…。言い換えるなら、私たちは「罪の力」の支配のもとにあるのか、それと
も「キリストの恵みの御支配」のもとにあるのかということです。

 少なくとも「キリストの弟子」として招かれた私たちには、その二者択一がいつも
信仰において明確であらねばなりません。何よりも、主イエスの十字架の贖いによっ
て私たちはいま既に、主と共に生きる新しい喜びの生命と生活に入れられているので
す。それにもかかわらず、なお主イエスの「弟子」とされた幸いから離れ、主の言葉
が理解できない、それこそ「我慢ができない」と言って主から離れ去ろうとする、教
会から離れ去ろうとする、主が生命をもってお建てになった教会を軽んずるのなら、
それこそ大きな罪を犯すことです。しかも私たちはその理由として「律法」すなわち
「古き人」を持ち出すのです。キリストによって全ての罪を贖って戴いた恵みを忘れ
て、生活のあらゆる場面で、私たちはいとも簡単に「古き人」(肉)の声に従って歩も
うとするのです。

 そのようにして、私たちの信仰生活は、もはやキリストに根ざしたものではなくな
り、キリストが滅ぼして下さったはずの「古き人」が、再び私たちの中で頭を擡げて
来るのです。主が導き出して下さったエジプトに「肉鍋が恋しい」と言って帰ろうと
するのです。ガラテヤ書3章1節の御言葉を思い起こさざるをえません。「ああ、物
わかりの悪いガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの
前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか」。

 パウロは「物わかりの悪い」(心の頑なな)ガラテヤの人々に対して、こう申してい
ます。「わたしは、ただ一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を
受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、
そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるという
のか」。「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまで
は、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」。

 今朝の御言葉において、主イエスは「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はま
ことの飲み物である」とはっきり語っておられます。この「まことの食物」とは直訳
すれば「永遠の生命を与えるパン」です。「まことの飲み物」とは「永遠の生命に至ら
せる飲み物」です。

私たち人間には「日ごとの糧」つまり「食物」と「飲物」が必要です。人間が生き
るために不可欠なものこそ「食物」と「飲物」だと言えるでしょう。サイクロンの被
害に遭ったカンボジアでは軍部の圧制により深刻な飢餓が続いています。「食物も、飲
物も、住む場所も、何もない」数百万人の難民がいます。まことに痛切な声です。か
つて中国でも毛沢東の指導のもと「小麦の生産を10倍にせよ」とのスローガンのも
と、山の樹木を全て伐採し畑にするという無理なことをしました。その結果は大水害
の発生と病害虫の蔓延となり、国民の約一割が餓死したと言われています。病害虫が
蔓延したのは国中の小鳥を殺したからです。山を丸裸にして小鳥を殺せば、どういう
結果になるかという実例です。

 ことほど左様に「肉の糧」を求める人間の叫びさえ、かくも多くの誤りに満ちたも
のですが、では魂に必要な「まことの糧」においてこそ、私たちの誤りはなおさら大
きいのではないでしょうか。万葉集に「山吹の咲きよそひたる山清水汲みに行かめど
道の知らなく」という歌があります。「人知れぬ深い山の奥に、死者の魂をも活かすと
いう“生命の泉”があると聞く。それを自分は亡くなった妻のために探しに行こうと
思うけれど、何処にその泉があるのか、その道さえもわからない」という悲しみの歌
であります。

 しかし、私たちはそうなのでしょうか。「汲みに行かめど道の知らなく」という人生
の過酷な現実に、なすすべもなく途方に暮れるばかりなのでしょうか。そうではない
のです。私たちのもとに、主イエス・キリストは来られたのです。そして十字架にお
かかり下さったのです。死者の初穂として復活せられたのです。そのおかたを私たち
は「神の子、救い主」と告白するのです。「汲みに行かめど道の知らなく」ではなく、
まさに「われは道なり、真理なり、生命なり」と仰せになった主のもとに、その恵み
の主権のもとに、いま生かされている私たちなのです。

 主イエスは、まさしく、私たちを罪と死の支配から解放し、私たちを「古き人」か
ら「新しき人」に生れさせて下さり、「律法ののろい」から解放し「神の永遠の恵みの
御支配」のもとに生きる者として下さるために、十字架におかかり下さったのです。
まさにそこで御自身の肉を裂かれ、血を流して、私たちの罪の贖いとなりたもうたの
です。だからこそ、主はその十字架の恵みをお示しになって、はっきりと告げていて
下さいます。「よく、よく、言っておく。……わたしの肉はまことの食物、わたしの血
はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、
わたしもその人におる」と。

 神の真実をもって主が宣言して下さいます。「あなたはわたしのものだ」と。神は私
たちをかけがえのない存在として極みまで愛して下さったのです。だから主が言われ
る「まことの」とは「永遠の生命を与える」(キリストに結ばれた者とされる)という
意味です。どのようなこの世の「食物」も「飲物」も、幾ら食べてもまた空腹になり
ます。しかしキリストの御身体に与かる私たちは、まさに主の復活の勝利に連ならる
者とされています。それがこの教会なのです。だから教会は「キリストの身体」と呼
ばれます。だから主は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わ
たしもまたその人におる」と言われたのです。

この「わたしにおる」の「おる」とは「一心同体」という字です。私たちはキリス
トの御身体と一心同体となる恵みを教会において戴いている。もはやいかなる罪と死
の力も「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離
すことはできない」のです。

スイスの神学者カール・バルトが、ある本の中でこういうことを語っています。一
隻の軍艦があった。装備は最新鋭、船足も速く、申し分のない無敵の軍艦であった。
ところがいざ実戦となったとき、その素晴らしい軍艦はいとも簡単に敵の船に沈めら
れてしまったというのです。その理由は、乗組員の間にいざこざや争いが絶えなかっ
たからでした。いざというときチームワークが発揮できなかったのです。素晴らしい
装備が活かされなかったのです。

 その実例を挙げつつ、バルトはこう申しています。私たちの教会は、この軍艦のよ
うであってはならない。教会の唯一の主(船長)は主イエス・キリストだからです。
だから、このかたが共におられるという恵の事実において、私たちにはすでに御言葉
と聖霊による一致が与えられているのです。世の様々な信仰の戦いの中で、おのおの
がそのタラントを活かしつつ、弱さを補い合いつつ、祈りと力を合わせて罪に立ち向
かう。それが教会の姿です。それで伝道のわざが祝福されるのです。私たちがこの唯
一の主のもとに一致結束しておらずに、世の人々はいったい何処に、魂を活かす「ま
ことの食物」「まことの飲み物」を求めうるのか。この主の御委託にお応えする私たち
とされているのです。「全世界に出ていって福音を宣べ伝えよ」と仰せになった主の御
声のもと、私たちは一致結束して教会に仕えるのです。

 主は57節に「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きて
いるように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」と言われました。
この「わたしによって」とは「キリストを糧として」ということです。私たちを生か
す「まことの糧」は十字架の主なるキリストです。このかた以外に人間を罪から救う
救い主はおられないのです。その恵みを知り、その「主」を知る私たちは、どうかエ
ペソ書6章のごとく「立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福
音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取り、救いのかぶとをかぶり、御
霊の剣、神の御言葉を取って」主の御業に仕える者でありたい。私たちが生かされ、
また世に宣べ伝える「まことの糧」なるキリストは、罪に死にたる者をさえ甦らせ、
神を讃美しつつ生きる新しい生命を、その御糧に与る全ての人々に約束して下さるの
です。このおかたこそ、私たちの永遠に変ることなき「主」であられるのです。