説    教  レビ記17章10〜13節  ヨハネ福音書6章52〜54節

「主の血によりて」

2008・08・17(説教08331232)

 わが国の優れた現代作家の一人である武田泰淳の作品に「ひかりごけ」という小説
があります。実話に基いた物語です。一艘の漁船が嵐で難破し、乗組員が全員北国の
断崖絶壁の洞穴に避難するのです。ずいぶん時を経てわずか数名の者が救助されるの
ですが、救助されるまでの絶望的な日々の間、彼らが死んだ仲間の肉を食べて飢えを
凌いだのではないかという嫌疑がかかる。そして裁判になるのですが、その審理の中
で繰広げられた葛藤を描いた小説です。

 この作品の中で、生き残った一人の乗組員が、ある民間伝承を引用するのです。そ
れは人肉を食べた者はかならず「身体の一部が光る」のだという言い伝えです。それ
が自分には見えると、その乗組員は言うのです。自分だけではない、人間は全て、こ
こにいる人々もみな、身体の一部が光っているではないかと言うのです。つまり人間
は誰でもみな、自分が生き残るため、自分の幸福のために、他者を犠牲にしている存
在ではないのかと問うのです。それがこの小説の主題です。それは現代社会そのもの
に突きつけられた鋭い問いであります。

 今朝、私たちに与えられたヨハネ伝6章52節の御言葉において、ユダヤの人々は
「この人(主イエス)はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることが
できようか」と問うています。不思議がっているのです。彼らには「わたしが与える
パンは、世の命のために与えるわたしの肉である」と言われた主イエスの御言葉が、
どうしても理解できませんでした。「自分の肉」を与えて「食べさせる」と言う言葉は、
それこそ律法が禁じた人身供応になるではないかと問うたのです。罪によって頑なに
なった彼らの心は、主イエスの御声が聴こえなくなっていたのです。

自分の身体こそ「光っている」にもかかわらず「いや自分は光っていない」と言い
張るのです。この者(主イエス)はいったいどうやって「自分の身体を与えることが
できようか?」と問うのです。これこそ神を冒涜する言葉だと言って主イエスを審い
たのです。ここで「(人々が)互に論じ合った」とあるのは印象的です。主イエスに対
して面と向かって語ったわけではないのです。ここでも人々は、蔭でキリストの批判
をした(つぶやいた)のです。41節に現れている「つぶやき」の罪が、ここでも再現
されているのです。

 そのような彼らに対して、主イエスははっきりと言われました。それが53節の御
言葉です。「よく、よく、言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなけ
れば、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永
遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう」。この「よく、
よく」とは「アーメン、アーメン」(文語訳では「まことに、まことに」)という言葉
です。自らの罪さえ見えなくなっている人々、否、私たち一人びとりに対して、主イ
エスは「神の恵みの真実」をもってお応えになるのです。しかもそれを二度も繰り返
して語られるのです。私たちの罪が来たらす混乱と迷いの中に、ただ神の「まこと」
(十字架の愛)だけが光を与えるのです。

 主ははっきりと言われます。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、
あなたがたの内に命はない」と。ここで大切なのは「人の子」という言葉です。これ
は旧約聖書のダニエル書7章13節に出てくる表現で、キリストを証している言葉で
す。信仰告白の言葉です。ですからユダヤの人々は「人の子」と聴いたとき、それは
すぐに、預言者ダニエルが証している“世の救い主”(メシア・キリスト)のことだと
理解したのです。

 ところが、こともあろうに主イエスは、その「人の子」の「肉」と「血」が人々に
よって食されなければ、その人々に「命はない」と言われる。これが彼らを驚かせた
のでした。ユダヤの人々にとって「人の子」とは「栄光の王」であり、ローマの圧制
からイスラエルを解放し、ダビデ時代の繁栄を回復させる政治的なメシヤ(救世主)
にほかならなかったからです。その「人の子」(救世主)がこともあろうに、自分の「肉」
と「血」を人々に与える。それは言い換えるなら、自分は死んで人々の犠牲となると
いうことです。こういうことを語るからには、この者(イエス)は本当の「人の子」
ではあるまいと考えたのです。だからこそ、嘲笑をこめて「互に論じて言った」ので
す。「この者は、どうして、自分の肉を我々に与えて食べさせることなどできようか」
と。メシヤ(救世主)がどうして死ぬことがあろうかと罵ったのです。

 私たちは既に、このヨハネ福音書の特に6章をかなり丁寧に読んでまいりました。
それはこのヨハネ伝6章にこそ、私たち“人間の罪の姿”がどういうものであるか、
あざやかに現されているからです。それは同時に、その罪からの救い(福音)が鮮明
に告げられていることです。神は私たちを、罪と死の支配のもとに放置なさいません。
「すべての人を照すまことの光」として御子イエスをお遣わしになった神は、ルカ伝
1章79節が語るように「暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道
へと導いて」下さるのです。「暗黒(くらき)に住む者に光が照り出た」のです。主の
教会に連なる私たち一人びとりが、その恵みの証人とされているのです。

 本日、このヨハネ伝6章52節以下と併せて拝読しました旧約聖書レビ記17章10
節以下に、いわゆる「血の規定」と呼ばれる律法が記されています。「たとえ誰であれ、
血を食べてはならない。もし食べた者は地から断たれるであろう」という厳しい掟で
す。なぜかと言うと17章11節に「肉の命は血にあるからである」とあるように、イ
スラエルの人々は「血」を“生命の中心”だと考えたからです。それは単純なことで
す。血が大量に流れると人間は死んでしまう。それならば、生命は血の中にあるのだ
と考えたのです。そして、すべての生命は神の創造したもうもの(神の御業)なので
すから、人はそれを決して軽んじたり奪ったりすることは許されない。それでこの「血
の規定」と呼ばれる律法が定められたのです。たとえ動物の肉を食べても、その血を
食べてはならないと誡めたのです。

 正統的なキリスト教会ではなく、キリスト教を標榜する異端的カルト宗教に「もの
みの塔」(ヱホバの証人)と呼ばれる団体があります。葉山教会にさえやって来て本を
置いてゆこうとします。つまり自分たちだけが絶対に正しく、教会は間違っているの
だと考えているのです。この「ものみの塔」の人々は、このレビ記17章の律法を文
字どおりに解釈して輸血を禁じています。交通事故で重傷を負った子供の治療のため
にどうしても輸血が必要なのに「ものみの塔」の信者である親がそれを拒否したため
に、子供が死亡するという事件が実際にありました。その時の担当の医師が「個人の
思想信条は尊重せねばならない」という旨の発言をしていましたが、私はそれは大き
な間違いだと思います。「思想信条の自由」は医師たる者の判断すべきことではなく、
医師はただ生命を救うのが務めだからです。私は、たとえいかなる親の拒絶があろう
とも、医師は断固として輸血をすべきであったと思います。

 ことほど左様に、意味を読み間違えると大変な悲劇を生ぜしむる御言葉であります
が、その本義は「血は命であるゆえに、あがなうことができる」というレビ記17章
11節の御言葉にあります。つまり私たち人間の罪は「あがない」のための「命」を必
要とするということなのです。この「あがない」という字は「代価を払って買い取る」
という意味です。「身代金」と訳してもよい。罪は神に対する反逆であり、神に叛いて
生きること(神との関係を失うこと)です。だから、いかなるモノをもってもそれを
「あがなう」ことはできず、ただ「命」のみが「罪のあがない」となりうるのです。
言い換えるなら、エゼキエルが語るように「罪を犯した魂は死ぬ」のです。たとえ肉
においては生きていても、霊においては(神の前に)死んだ者となっているのです。

 それならば、ここで改めて問わざるをえないのは、では私たちに本当にそのような
「あがない」ができるかということです。「自分の命をもって」と言われます。しかし
私たちの「命」さえ罪に支配された「命」にすぎないのですから、もはや私たちはど
こにも、本当の「あがない」の可能性は無いのです。人間はたとえ自らの「命」を献
げても罪の「あがない」をすることはできないのです。これが聖書が私たちに告げて
いる罪の真相であり人間の悲劇です。それならば、いったいどこに私たちの罪の「あ
がない」はあるのか。私たちを真に生かしめる「生命」はどこにあるか。その唯一の
答えを今朝の御言葉ははっきりと告げているのです。

 神の御子イエス・キリストこそ、まさに限りない「神の恵みの真実」をもって、こ
の最も大切な人生の問いに応えて下さる唯一のかたなのです。キリストは罪なき神の
御子でありながら、私たちの罪のどん底に降りて来て下さったかたなのです。だから
こそ「よく、よく、言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、
あなたがたの内に命はない」と主は言われる。この「主の肉と血を食べる」とは、キ
リストを「わが主、救い主」と信じて教会に連なることです。ただそこにのみ私たち
の“まことの生命”があると告げていて下さるのです。つまり神の御子イエス・キリ
スト御自身が、あの十字架において、私たちの罪の唯一永遠の「あがない」となって
下さったことです。罪の赦しと救いの御業を成し遂げて下さったのです。

 「人の子(キリスト)の肉を食べ」「その血を飲む」とは「キリストに与かる」こと
です。キリストを信じて教会に連なることです。礼拝者として生きることです。代々
の聖徒たちが告白し、教会が受継いできた信仰告白に、心から「アーメン」と唱和す
ることです。だから信仰告白のことをギリシヤ語で“ホモロゲイン”と申します。そ
れは「一つの言葉」(言葉を重ね合わせる、一つの心になる)という意味です。イエス・
キリストの御名を告白し、主がお建てになった教会に連なるとき、私たちはそこでせ
本当に“ホモロゲイン”(言葉を重ね合わせる)者とされるのです。それが「キリスト
に与かる」ことなのです。

 そこで、この「与かる」という日本語は、非常に深い意味を持っていると私は思い
ます。もしかしたら他の外国語以上に、キリストの恵みを深く伝えうる言葉かもしれ
ません。それは「与かる」という字は「与える」とも読めるからです。つまり私たち
が「キリストに与かる」者とされるのは、まずキリスト御自身が私たちのため、私た
ちの測り知れない罪の「あがない」のために、御自分の「肉」と「血」を「与えて」
下さったからなのです。まず「与える」者がなくては「与かる」ことはできません。
私たちが「キリストに与かる」者とされているのは、まずキリストが私たちのために、
御自分の全てを「与えて下さった」からなのです。

 それこそ、主イエスの御生涯そのものであり、また、あのゴルゴタの十字架の出来
事です。父なる神は私たちの罪の「あがない」として、私たちの生命ではなく、最愛
の独子イエス・キリストの生命をお求めになって、それを私たちの罪の「あがない」
として世に「与えて」下さったのです。そこに、私たちの本当の救いがあるのです。
私たちの「罪」は私たちの「命」によって「あがなう」ことはできません。ただ神の
御子イエス・キリストの「血」(生命)によってのみ、唯一かつ永遠の「あがない」を
得ることができるのです。私たちはこのキリストが私たちの身代わりとなって十字架
にかかって下さったゆえに、もはや罪と死の支配を受けることなく、キリストの恵み
の御支配のもとにあることを確信することができます。戦いの日にも、悩みの日にも、
喜びにも、悲しみにも、ただキリストの義が、私たちの朽つべき全存在を覆っていて
下さることを、世々の聖徒たちと共に告白し、主の御名を崇めるのです。

 あの悲惨な戦争の経験から64年の月日が経ちましたが、昔も今も、なお私たちの
この世界は「報復」の名のもとに動いています。ロシアとグルジアの戦争もそうです。
しかし報復の秩序では、本当の人間の世界は絶対に成り立たず、真の平和は来ないの
です。それは、自分の身体こそ「光っている」のに「いや自分は光っていない」と言
い張ることと同じなのです。神の御子イエス・キリストは、まさにそのような私たち
の世界のただ中に、罪の贖いと赦しの唯一の「主」として来て下さったのです。「わた
しが世に来たのは、世をさばくためではなく、救うためである」と主は言われました。
今朝の御言葉の6章54節では「わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろ
う」と語っておられます。

 かつてペルーのリマにおいて、日本大使館公邸がテロリストのグループによって占
拠され、人質が監禁されるという事件がありました。あのときシプリアンというペル
ーの聖職者が、犯人グループの説得と罪の執り成しのために、毎日公邸に出入りする
姿がテレビに映し出されました。来る日も来る日もテレビは、一人の老人がとぼとぼ
と公邸に入り、またとぼとぼと公邸から出てくる姿を映しました。そのシプリアン神
父の姿はある意味で無力なものでした。それを見ながら世界中の人たちは思ったこと
でしょう。こんなことでは何も解決できるはずがないと。祈りと執成しは結局、テロ
リズムの前には無力ではないかと。そして間もなく、ある日突然、武力による解決が
起こりました。シプリアン神父にひと言の相談もなく、わずか10分で犯人たちは全
員射殺され、人質は解放され、事件は解決しました。そこで世界中が拍手喝采しまし
た。そうだ、この世の問題の本当の解決はこうでなくてはいけない…と。

 本当にそうなのでしょうか。私はそれに類することが幾らでも起っていると思いま
す。キリスト教会は挑戦状を突きつけられています。私たちが問われているのです。
たとえ道はどんなに遠く、どんなに無力に見えても、あのときシプリアン神父が勇気
をもって行った、祈りと執成しによる対話だけが、本当の意味で私たち人間の罪の問
題の真の解決に繋がるものではなかったか…。事実犯人たちは自分たちの罪を悔改め
つつあったのです。あの事件のあとでシプリアン神父は、世界中が犯人を憎んでいる
だろうが、自分はあの犯人たちのために祈ると言って涙を流しました。その涙の価値
を、重みを、世界はどれほど認識したでしょうか。私たちの身体こそ、互いに喰い合
うことしかしないこの世界の中で、無気味に「光っている」ことはないでしょうか。
主イエスはまさしく、その私たちの罪の「あがない」となって下さったのです。この
主を信ずる歩みこそ「永遠の命」の歩みなのです。

今日は聖餐の行われない礼拝ですが、文字どおり、私たちの罪のために裂かれ、そ
して流されたキリストの御身体と御血に「与かる」のが教会であり、この礼拝なので
す。私たちがキリストに「与かる」者とされているのは、まさに主がまず私たちのた
めに十字架にかかられ、御自身を「与えて」下さったからです。その測り知れない主
の恵みを覚えつつ、どうか私たちは、心からなる信仰をもって、感謝と讃美と、畏れ
をもって、新しい一週間を歩みだしたいと思います。感謝と希望と勇気をもって、キ
リストの主権のもと、世の旅路へと遣わされて行きたいと思います。