説   教    イザヤ書38章16節  ヨハネ福音書6章47〜51節

「教会的信仰」

2008・08・10(説教08321231)

 私が高校生のころ、いちばん好きな授業は生物でした。先生の授業が面白かったの
です。あるとき、こういう質問が出ました。「ロウソクと人間と、どこがどう違うのか、
証明してみなさい」と言うのです。生徒たちは、なんだ、そんなこと簡単ではないか
と思って「ロウソクは無生物で、人間は生物である」と答えました。すると先生は「そ
れでは答えになっていない」と言うのです。「ロウソクが無生物であるということを、
生物学的に証明してみせなさい」と詰めよってきたのです。

 実は、もうこの段階で私たちは正直、答えに詰まっていました。考えれば考えるほ
ど、ロウソクが無生物だという生物学的な証明がどうしてもできない。たとえばロウ
ソクは呼吸をする。酸素を吸って二酸化炭素を出します。エネルギーを放出する。火
を燃やして熱を放出します。寿命がある。ロウが燃え尽きれば火が消えます。成長も
する。ロウが垂れて積み重なってゆく。繁殖だってします。他のロウソクに火を移す
ことができる。変化がある。炎が揺らいだり形が変わったりします。そういうことを
考えてゆくと「ロウソクは生物である」と言われても反論できなくなるのです。そう
いう不思議な生物の授業を、高校生の時に経験しました。

 そこで、同じように、私たちはこの現代社会において「何が人間を人間たらしめて
いるのか」また「人間とは何であるのか」が、本当には分からなくなっているのでは
ないでしょうか。「誰でも良かった」というキーワードで、理解できない殺人事件が次々
と起りました。「誰でも良かった」と言うのは、逆に言うなら、普段からその人自身が
「自分なんか、いても居なくても、どうでも良いのだ」と思い続けてきたということ
です。自分の存在理由が全くわからなかったのです。だから、他人の生命をも「誰で
も良かった」と言って簡単に殺すことができるのです。

まさに人間の本質が見え見えづらい社会に、私たちは生きているのです。ただ単に
「人間は生物である」と言うだけなら、極端な話、ロウソクとなにも変らないことに
さえなるのです。「生命は大事なものだ」という論理では、殺人は防ぎようがないので
す。言い換えるならば、人間と人間でないものとの境目が非常に曖昧な時代に私たち
は生きているのです。人間を真に人間たらしめるものが見えていないのです。人間と
いうものが非常に単一的に理解されているのです。新しい間違った「人間神話」が誕
生しつつあるのです。

 そのことは個人だけではなく、社会や国家の行動にも現れてきます。いまから7年
前の9月11日にニューヨークの高層ビルがイスラム過激派のテロによって破壊され
ました。そのとき“自由主義”を標榜する世界中の国々が最初に訴えたこと、そして
今も少しも変わっていない姿勢は「全面報復戦争」ということです。もちろんテロリ
ズムは大きな罪です。しかしその報復が「無限の正義」という名の軍事行動となり、
イラクやアフガニスタンへの攻撃が行われ、現在も続いています。「無限」という言葉
はただ神に対してのみ用いられる言葉です。私たち人間にはいかなる場合にも「無限
の正義」ということはありえないのです。そこにも私たち人間が、社会に対してまこ
とに単一化した見方しかできず、自分を神格化する“バベルの塔”を建ててしまって
いる、ひとつの例が現れているのです。

 本当に「全面報復戦争」という選択肢しかなかったのでしょうか。そもそも「報復」
という方程式だけでは社会の問題は解きえないはずです。この現実の世界が「テロリ
ストと自由主義」という二つに色分けできると考えることこそ、神話的世界への逆行
ではないでしょうか。そもそも「無限の正義」による「報復戦争」によってしか守れ
ない民主主義とはいったい何なのでしょうか。人間はロウソクと変らぬ意味で「生物
である」というだけの存在ではないはずです。

 まさに、そのような私たちと、私たちの社会全体に対して、主イエス・キリストは、
今朝のヨハネ伝6章47節以下の御言葉を語っておられます。まず、ここで主は47節
に「よく、よく、あなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある」と語って
おられます。この「永遠の命」とは“まことの神との永遠の交わり”“まことの神との
正しい関係”をあらわす言葉です。この「永遠の命」とは、イエス・キリストが教会
において私たちに与えておられる“復活の生命”であり、その復活の生命に連なって
生きることこそ教会に連なって生きることです。「罪」とは意識的にも無意識的にも神
から離れ、神に叛く生活をしていたことです。そのような私たちが、神に立ち返って、
神との正しい交わりの内に(永遠の生命の内に)本当の自分を回復されてゆくのです。
「いても居なくても、どうでもよい自分」ではなく「神に呼ばれ、招かれ、愛されて
いる自分」を、私たちはキリストの内にのみ見出すのです。

 では、どうすれば私たちは、その「永遠の生命」に連なる(あずかる)者とされる
のでしょうか。そのいちばん確かな答えとして、主イエスは「信じる者には永遠の命
がある」と言われました。私たちに求められているものは、主イエス・キリストを「わ
が主、わが救い主」と信じ告白する「信仰」です。信仰とは、キリストを見つめ、キ
リストの御跡に従って生きることです。単なる心の状態ではなく、私たちの生活の全
体をキリストの御手に明け渡すことです。

 私たちは「信仰」と言うと、それは「自分の心の中の状態のこと」なのだと勘違い
しやすいのです。もしそうなら「自分の心の中の状態」は誰にも窺い知ることはでき
ませんから、それは徹底的に“個人的なこと”だということになります。そのように
勘違いしている人は「信仰」と聞くとすぐに、それは“個人的なこと”だと思ってし
まうのです。そしてこの“個人的なこと”とは、実は私たちにとって魅力的な言葉な
のです。

 この現代社会の中で、私たちは心のどこかで、本来の自分を生きてはおらず、ある
べき自分を失っていると感じています。自分に嘘をついていると感じているのです。
そのようなとき「信仰は個人の問題だ」と聞くと、妙な安心感を抱いてしまうのです。
ああそうか、信じるのも信じないのも、けっきょくは自分の勝手なんだと、いつのま
にか信仰が“教会的”な生命のあるものではなく“個人的・主観的”な姑息なものに
なってしまうのです。せいぜい「本来の自分が取り戻せるところ、自分が安心して生
きられるところ」が信仰なのだというだけのことになるのです。

ちょうど、逆風に逆らって道を歩いて来た人が、一軒の喫茶店に駆けこんだときの
安心感のようなものです。そんな個人的な安心感で「信仰」がわかったような気になっ
てしまう。疲れて仕事から帰ってきた人が、夜のひとときを、寝転がってテレビを視
ているような程度の安心感です。さらに譬えて言うなら、傷ついた動物が地面に適当
な窪みを見つけて、そこにじっと蹲るようなものです。それが「信仰」だとどこかで
私たちは思っているのではないか。もしそうなら、私たちは続く48節の主イエスの
御言葉を襟を正して聴かねばなりません。主イエスは言われます。「わたしは命のパン
である。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天か
ら下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた
生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与える
パンは、世の命のために与えるわたしの肉である」と。

 実に驚くべきことが、ここには記されているのです。「信仰」とは個人の小さな安心
感などではありません。そうではなく「信仰」とは「命のパンであられるイエス・キ
リストを食べること」なのです。そして、そのイエス・キリストは「わたしが与える
パンは、世の命のために与えるわたしの肉である」と言われる。御自身が私たち全世
界の罪の贖いのために十字架にかかられたキリストであられることを明言しておられ
る。それなら、本当の「信仰」とは「十字架の主イエス・キリストにあずかること」
です。「キリストを食すこと」です。それが聖書の語る「まことの信仰」であります。
「個人的なこと」などではない「教会的な出来事」なのです。キリストの御身体に連
なることなのです。

 しかも、ここで主は49節に「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んで
しまった」と言われます。これは、モーセに率いられてエジプトから脱出したイスラ
エルの民が40年間もの荒野の旅のあいだ「マナ」と呼ばれる「天からのパン」によ
って養われた出来事をさしています。その人々はしかし「死んでしまった」と主は言わ
れます。身体に必要な食物だけを求めた人々、人間関係だけを大切にした人々、自分
の功績を誇った人々、その人たちは、死によって無に帰してしまった。罪に打ち勝つ
生命を得ることができなかった。彼らはマナを食べたけれども、そのマナは単なる肉
体の糧であって、罪から人を救う「霊の食物」ではなかった。そのように主は仰せに
なっておられるのです。

 そこで、これは、ただ単に、イスラエルの民の昔の出来事なのでしょうか。そうで
はありません。ここに集まっている私たち一人びとりが、この社会にあって何によっ
て生きているのかが問われているのです。私たちもまた、あのイスラエルの民のよう
に、一時は満腹したけれどやがては死んでしまった、朽ちる「肉の糧」のみを頼みと
しているのか。ただ「個人的なこと」として「信仰」を理解しているにすぎないのか。
吹きすさぶ社会の嵐の中で、適当な窪みを見つけて、身を潜めているだけなのか。

 まことの信仰とは、そのようなものではないと、主ははっきりと言われるのです。
まことの信仰とは「命のパン」である「イエス・キリストを食すること」です。「世の
命のために与えるわたしの肉」を与えたもう十字架のキリストを信じ、主の教会に連
なって生きることです。それは「個人の問題」などではなく、まことの神との関係(神
との和解)において、私たちが真に健やかな喜びの生命に生きる者となることです。
窪みに蹲って安心するのではなく、むしろ主イエスの御声を聴いて立ち上がり、主イ
エスと共に歩んで行く平安を、私たちは主の御手から戴いているのです。それが聖書
の語る「信仰」なのです。

 私たちが教会によって主から戴いている御糧は、古い「肉の糧」などではありませ
ん。それはキリスト御自身であり、「霊の糧」すなわち御言葉と聖霊による「いまここ
におけるキリストの救いの御業」です。私たちをあらゆる罪の支配から解放し、真の
自由と平和の道を歩ましめるものです。だからこそ主は最後の51節に「わたしは天
から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」
と言われました。この「いつまでも」とは「永遠」ということです。キリストが永遠
なる神の御子であられるように、私たちもまた、キリストの「生命のパン」にあずか
り、キリストの復活の生命に満たされ、導かれ、強められてゆくのです。それが「い
つまでも生きる」ということです。

 旧約聖書の創世記32章に、ヤボクの渡しを渡るヤコブの物語があります。ヤコブ
の心を捕らえていたものは、兄エサウとの和解でした。それさえ叶えば自分は救われ
ると思っていたのです。しかし、そこに神の人が現れてヤコブと夜明けまで組討をし
ます。その激しい戦いの中で、ヤコブははじめて気がつくのです。人間にとって最も
大切な唯一のこと、それは神との和解であると。だから神の人に「あなたの名を聴か
せて下さい」と願い「わたしを祝福して下さらなければ、あなたを去らせません」とま
で言います。私たちの救いは私たち自身の中に(世界の中に)あるのではない。ただ
天地を造りたまえるまことの神にあるのです。キリストの御業にあるのです。キリス
トの贖いにあるのです。十字架によって私たちは神と和解させて戴いた。そしてキリ
ストの御身体(生命のパン)にあずかる者とされた。主は私たちに「イスラエル」(神
の支配)という新たな名を、そこで与えて下さるのです。

 今朝の御言葉の最後の51節に、主イエスは「わたしが与えるパンは、世の命のた
めに与えるわたしの肉である」と語っておられます。これは聖餐の聖礼典のときにか
ならず読まれる言葉です。「これは汝らのための、わが身体なり」。そしてパンと杯が
配られます。教会をあらわすコイノニアという言葉さえ、この「共にひとつの糧にあ
ずかる」というギリシヤ語に由来しています。まさに主が御自分の肉を裂かれ、血を
流して私たちの罪の贖いとなって下さった、その測り知れない恵みのもとに、私たち
のこの教会が建てられ、そこに私たちは集められているのです。ここで共に主が下さ
る「生命のパン」にあずかる者とされているのです。

 それこそが、聖書の語る「信仰」の歩みです。まことの信仰とは「教会的」なもの
です。教会において、キリストの十字架の贖いの恵みにあずかることです。私たち全
ての者のため、全世界の救いのために、十字架に御自身を献げて下さった主イエス・
キリストにこそ、私たちが真に人間として生きうる唯一の「生命の糧」があるのです。
そこにおいてこそ、人間ははじめて、罪の縄目から解放され、神の御心に適う歩みを
なす者へと変えられてゆくのです。「誰でも良い」のではなく「かけがえのないあなた」
を神は「生命のパン」(キリスト)へと招いておられる。そこに私たちの幸いがあり、
喜びがあり、本当の生命があるのです。