説   教   イザヤ書54章11〜14節  ヨハネ福音書6章41〜46節

「キリストに従う歩み」

2008・08・03(説教08311230)

 「ユダヤ人らは、イエスが『わたしは天から下ってきたパンである』と言われたの
で、イエスについてつぶやき始めた」。今朝、私たちに与えられたヨハネ伝6章41節
にはこのように記されています。ここには、主イエスの御言葉に対して疑いを懐き、
心の内に「つぶやき」を起こした人間の姿が現れています。これこそ、私たち自身の
姿でもあるのではないでしょうか。なぜ、人々はここで「つぶやき」はじめたのでし
ょうか。そもそも、「つぶやく」とは、どういうことなのでしょうか。

 広辞苑を見ますと「つぶやく」とは「ぶつぶつと小声で言う」あるいは「くどくど
とひとりごとを言う」とあります。それは対話を拒絶した者の姿です。不平不満を鬱
積させ、面と向かって言えないので「つぶやく」のです。「つぶやき」において相手を
貶めようとするのです。

 いままで、私たちが読んで参りましたこのヨハネ伝6章において、主イエスは常に、
人々をご自分との対話の中に招いておられます。ときに人々が、主イエスの御言葉に
耳を傾けなくなっても、なおそこで主イエスは人々を、神の御言葉を聴く生活へと導
いて下さっています。ときに人々が、主イエスの御言葉を誤解した時にも、なお主イ
エスは、そこで人々の耳を正しく開いて下さるのです。

 しかし、今朝の41節に示されている人々の心の、余りの頑なさの前に改めて私た
ちは驚かざるをえません。「つぶやき」は、あからさまな批判よりはるかに悪いことで
す。ひそかに陰で悪口を言うのです。自分の意見に追従する人間に訴え、加勢をえて
まで人を陥れるのです。旧約聖書の箴言に「あからさまに諌める者は、蔭で批判をす
る者にまさる」とあります。今朝の人々の態度は、ちょうどその逆でした。

 人々はどのように「つぶやいた」のでしょうか。それは42節「これはヨセフの子
イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から
下ってきたと、どうして今いうのか」と「つぶやいた」のです。まず「ヨセフの子イ
エス」という表現は、主イエスの時代のユダヤで、男子の出自をあらわす一般的な言
いかたでした。「あれは誰々の息子だ」という言いかたをしたのです。

ヘブライ語で息子のことを「ベン」と言います。だから人々は主イエスのことを“ベ
ン・ヨセフ”(ヨセフの子)と呼んだのです。ではその「ヨセフ」とは何者か…。ガリ
ラヤのナザレの一介の大工(家造り)にすぎないではないか。その母は何者か…。そ
れは貧しい庶民の娘マリアにすぎないではないか。「わたしたちはその父母を知って
いるではないか」とはそういう意味です。父はヨセフ、母はマリア。二人とも、その
素晴らしい信仰の人格は別にして、貧しくありふれた庶民にすぎません。貴族でもな
く、地位や学問のある人々でもないののです。

 そこで人々は言うのです「これはヨセフの子イエスではないか」と。ただの庶民の
息子ではないか。それなのに「わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。
人々は主イエスに向かって「つぶやき」訝しみ、蔑んだのです。卑しい庶民の息子が、
なぜ自分は「天から下ってきた」などと言えるのかと「つぶやいた」のです。

 そもそも「天から下ってきた」とは、自分が「神の子」であることをあらわす言葉
です。つまり、人々は主イエスを「神の子」と信じていなかったので「つぶやき」を
起こしたのです。御言葉を御言葉として聴いていなかったのです。ガリラヤの岸辺で
驚くべき「生命のパン」の奇跡を見ていたにもかかわらず、なお主イエスを「神の子」
と告白しなかったのです。それよりも彼らの目には、貧しい庶民の息子、ナザレのイ
エスの姿しか見えていなかったのです。

 それでは、私たちはどうなのでしょうか。私たちは本当にいま、信仰の澄んだまな
ざしをもって、主イエスをこの私の(そして全世界の)「救い主キリスト」と信じ告白
しているでしょうか。そのようなまなざしを持って信仰生活を送っているでしょうか。
むしろ、私たちのまなざしもまた、今朝のこれらの人々と同様「ナザレのイエス」は
見ていても「救い主キリスト」は見ていないのではないか。生きた信仰をもって主イ
エスを見つめてはいないのではないでしょうか。

 信仰という字は「信じて仰ぐ」と書きます。この「仰ぐ」という字は本来“ある人
を見つめ、その人に従う”という意味です。だから信仰とは、日本語の字義に従うな
ら“ある人を見つめ、常にその人を信じ、従う歩みをなすこと”です。主イエス・キ
リストを見つめ、キリストを信じ、キリストに従う歩みをなすこと、それが私たちの
「信仰」の姿勢なのです。

 この単純素朴な活きた信仰の姿勢を、あんがい様々な所で、私たちは失っているこ
とはないでしょうか。見掛け倒しの信仰生活になっていることはないでしょうか。な
るほど私たちは、主イエスに向かって「これはナザレの、ヨセフの息子ではないか」
と「つぶやく」ことはないかもしれません。しかし、キリストを見つめ、キリストを
信じ、キリストに従う歩みをしていないのなら、私たちもまた、彼らの仲間であると
言わざるをえないのです。

 私たちも、心のどこかで、主イエスを蔑み、見くびっているのではないでしょうか。
主イエスよりも自分のほうが、世の中のことに賢いのだと自惚れていることはないで
しょうか。主イエスが私の人生に何ができるかと、いわば主イエスの御力を過小評価
していることはないでしょうか。そのとき私たちもまた、今朝のユダヤの人々と共に
主イエスに向かって「つぶやき」を始めています。あからさまに言うのが憚られるか
ら、仲間うちで不平不満を「つぶやき」あうのです。蔭で主イエスの御力を蔑視する
のです。主イエスを見つめておらず、その御跡に従ってもいないのです。

 いつかの婦人会でもお話したことですが、私たちは本当に滑稽な姿をさらすことが
あるのではないか。家庭の中に、人に言えないような重苦しい問題が起こったとき、
仕事の上で悩みごとに直面したとき、私たちはしばしば大まじめで「この厄介な問題
が片付くまでは、礼拝への出席をひかえよう」などと思ってしまう。家庭の中に人に
言えない問題を抱えることが滑稽なのではありません。その問題が片付くまでしばら
く礼拝から遠ざかろうとする姿勢が滑稽なのです。

 もし病気になった人がいたとして、もしその人が「自分の病気は重いから、もう少
し良くなってから医者に行こう」などと思っているとすれば、それこそ滑稽至極なこ
とであり本末転倒です。しかし、肉体の病気では滑稽なこのことを、もっと大切な信
仰の世界になると、平気で私たちはしてしまうのではないか。「いま抱えている、この
恥ずかしい悩みが片付いてから、礼拝に出席しよう」などと、本気で思ってしまうこ
とはないでしょうか。

 それこそ私たちの不信仰であり、主イエスに対する「つぶやき」から来る罪なので
す。主イエスはパリサイ人シモンの家で「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病
人である。わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招いて救うためである」
とはっきりと言われました。私たちは心のどこかで、自分はキリストによる「救い」
など必要のない「義人」だと、自惚れているのでしょうか。自分が「丈夫な人」であ
ると思っているのでしょうか。

だから「罪人を招いて救うために」来られた主イエスを、見つめもせず、その御跡
に従うこともしないのではないか。そのようにして私たちは、姑息にも、自分の義に
拠り頼みはじめるのです。そこに「つぶやき」が始まるのです。あからさまにではな
く、蔭で主イエスを批判しはじめるのです。キリストが私の人生に何ができるかと、
主イエスの御力を見くびるのです。

 内村鑑三という人が「後世への最大遺物」という本を書いています。その中で、私
たちが後世に遺しうる最大の遺産、それは「勇敢にして崇高な生涯である」と述べて
います。この「勇敢」また「崇高」とは、単に道徳的な価値基準ではなく、私たちの
ために十字架にかかられ、罪を贖って下さった主イエス・キリストを見つめ、キリス
トの御跡に従う歩みをなすことです。それこそ「勇敢にして崇高な生涯」なのです。
そして、この「最大遺物」のないところに、国は、また民族は、祝福と生命を失うほ
かはないと内村は言うのです。キリストを見つめ、キリストの御跡に従う「信仰」の
歩みなくして、人間は真に生きた者とはならないからです。

 主イエスは、まさに私たちの勇敢ならざる「つぶやき」に対して、はっきりと仰せ
になりました。43節以下です。「イエスは彼らに答えて言われた、『互につぶやいては
いけない。わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来
ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。』」そ
してさらに45節に、旧約聖書イザヤ書54章13節を引用され、こう語られたのです。
「預言者の書に『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて
学んだ者は、みなわたしに来るのである」。

 主イエスはここで37節と同様、ふたたび神の「選びの恵み」を私たちにお語りに
なります。私たちが「互につぶやく」のは、自分がどんなに素晴らしい「選びの恵み」
を受けているかを知らないでいるからです。「つぶやき」は不平不満です。不平不満は
自分の正しさ(おのれの義)を人生の基準とし、他者を審くことです。同じ秤で自分
も審かれます。そうして私たちの人生は、ますます不自由な、硬直した、生命のない
ものになってしまいます。硬直した心は、もはや神の御言葉を聞いても、それを受け
入れません。キリストを見ても「これはヨセフの子イエスではないか」と言うのみな
のです。

 そのような、硬直化し、信仰の生命から遠ざかった私たちの人生に、主イエスはふ
たたび、霊の生命を注ぎこんで下さいます。「わたしをつかわされた父が引きよせて下
さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」と主は言われます。これは、あ
なたがたが今、私のもとに集うているのは、父なる神ご自身の「選びの恵み」による
ことなのだということです。言い換えるなら、私たちが神を求めるに遥かにまさって、
まず神ご自身が私たちを求め、私たちを見出し、私たちを恵みをもって選んで下さっ
たということです。

 このことを、パスカルは「パンセ」という本の中で、こう語っています。「汝、心を
休んぜよ。もし汝にして、我に逢わざりしなば、我を求めざりしならん」。私たちの救
いの根拠は少しも私たちの側にではなく、ただ神の慈しみにのみあるのです。神は言
われるのです「もしあなたが私に出会わなかったなら、あなたは私を求めてはいなか
ったであろう」と。つまり、もし私たちが神を求めているのなら(そして事実、全て
の人間は真の神を求めているのですが)そのとき、神ご自身が私たちに出会っておら
れるのです。この「出会い」とは「選びの恵み」です。だから主イエスは「あなたが
たがわたしを選んんだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのである」と仰せに
なりました。

 もし、私たちが選択した救いなら、それは不確かであり、救われるのも救われない
のも、私たちの責任ということになります。しかし、神が私たちを、恵みをもって「選
んで下さった」という点に、私たちの救いの根拠があるのですから、その救いは最も
確かなものであり、救いの根拠は私たちにではなく、神の側にのみあるのであります。
それならば、私たちに求められていることは、私たちを罪と死の支配から贖い出すた
めに、十字架に生命を献げて下さった主イエス・キリストを、心から「神の子」と信
じ、告白することです。このお方を「仰ぐ」ことです。人生の全ての場面で、喜びに
も、悲しみにも、幸いにも、悩みの日にも、キリストの恵みを見つめ、キリストの御
跡に従う信仰の歩みを、祈りを合わせつつ造ってゆくことです。

 そのような信仰の喜びの歩みをこそ、私たちは共に「勇敢にして崇高なる生涯」と
して共有する群れとされているのです。主の御名を讃美しつつ生きる群れこそ私たち
の教会なのです。教会はキリストの御身体であり、そこに私たちは何の条件や資格も
なく、ただ恵みによって招かれているのです。そこにおいてこそ、私たちは、私たち
の人生を真に生かしめるまことの「身体」を持つのです。罪と死に打ち勝ちたもうた
イエス・キリストの復活の御身体です。教会はキリストの復活の御身体です。だから
そこに連なって生きるとき、私たちはキリストの復活の生命に甦らされた者として生
きるのです。もはや、おのれの義を立てる必要などない。キリストの永遠の義が私た
ちの朽つべき全存在を覆って下さいます。キリストの義が、私たちの義と喜びとなる
のです。

 私がかつて学んだ先生に、エドゥアルト・シュヴァイツァーという新約学者がおら
れました。この先生からあるとき、こういうお話を伺いました。シュヴァイツァー先
生はスイスの山奥のご出身です。幼い頃、よく山の上のヒュッテ(チーズ作りの作業
小屋)に遊びに行った。夕方になって帰ろうとすると、道に新雪が積もって、とても
子供の力では帰れなくなることがあった。そのようなとき、かならずお父さんが迎え
に来てくれた。「エドゥアルト、迎えに来たよ」というお父さんの声がする。すると、
もう嬉しくなって、安心して外に飛び出す。そうして、お父さんが歩きなから雪の上
につけてゆくその足跡を、そのままたどって歩いてゆくと言うのです。

 そして、シュヴァイツァー先生は言われました。「キリストに従うとは、そういうこ
となのだ」。私たちは、すぐに自分を頼みとしたがるのです。キリストの御力を見くび
るのです。しかし信仰をもって主イエスを仰ぎ、教会に連なり、礼拝者として歩む信
仰の歩みは、キリストが切り開いて下さった生命の道を、キリストの御跡に従いつつ
歩んでゆくことなのです。

 それこそ、教会生活者としての歩み、礼拝者としての歩みです。御言葉を聴いて信
ずる者の歩みです。どうか私たちは、そのような信仰の歩みへと、日々招かれている
ことを心にとめたい。そして、共に主の道を歩んで参りたいと思います。悩みや戦い
や悲しみの中でこそ、いっそう心を高く上げ、勇気をもって、礼拝者としての歩みを、
「勇敢にして崇高なる生涯」を、歩み続けて参りたいものです。