説    教    詩篇115篇1節  ヨハネ福音書6章38〜40節

「キリスト者の大願成就」

2008・07・27(説教08301229)  「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わた しをつかわされたかたのみこころを行うためである」と主イエス・キリストは言われ ました。今朝、私たちに与えられたヨハネ福音書6章38節の御言葉です。  まずここに主イエスは、御自分が「天から下ってきた」かただということを明らか にしておられます。「父なる神のみもとから」主は来られたのです。私たちは「天」と 聴きますと漠然としたものを考えがちですが、主イエスは明確に「天の父なる神のみ もと」をさし示しておいでになるのです。  この事実それ自体が、素晴らしい福音の音信(おとずれ)ではないでしょうか。私 たち葉山教会では、教会員の死を「帰天」と呼びます。「天に帰る」と書くのです。長 老会でそのように決めたのです。それは、私たちにひとつの思いがあったからです。 たしかに、昔の植村正久先生などの文章を読みますと、キリスト者の死も「死去」あ るいは単に「死」と記すのが良いだろうと書いておられます。それはそれで、ひとつ の立派な見識です。  たとえキリスト者であっても、なくても、人間の死のさまそれ自体に違いがあるわ けではありません。だからよく用いられる「召天」という言葉には、植村牧師は明確 な異論を唱えていました。死を美化する危険があると考えたのです。そもそも漢語で 「召天」と書く場合「天を召す」という意味になるので、日本語として成り立たない のです。そこで私たちの長老会では、やはりキリストの教会でこそ用いるべき、死に 対するふさわしい日本語があるのではないかと議論し、「帰天」という言葉を用いるこ とにしました。ですから長老会の正式な記録にも、教会員が亡くなった場合には「何 年何月何日、誰々、帰天」と書かれます。キリストに結ばれた者の死を「帰天」と呼 ぶことこそ、最もふさわしいことだと考えたのです。  何よりも、主イエスみずから、今朝の御言葉にはっきりと「わたしが天から下って きたのは」と仰っておられる。さらに、同じヨハネ伝14章1節と2節には、わたし が父のもとに行くのは「あなたがたのために場所を用意」するためであると仰ってお られます。「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのと ころに迎えよう」と仰っておられるのです。それならば、私たちが教会により“キリ ストに結ばれた者”として死ぬということは、キリストがそこからおいでになり、そ して帰って行かれた、その「場所」に「迎え」られるということです。それこそが「天」 であると、主イエスははっきりと言われた。それならば「帰天」こそふさわしいキリ スト者の死の表現であります。それこそまさに、私たちキリスト者の「キリストにあ る死」のさまを言い表しているのです。  讃美歌の361番に「主にありてぞ、われ死なばや。主にある死こそは、いのちなれ ば」と歌われています。続けて「生くるうれし、死ぬるもよし。主にあるわが身の、 さちはひとし」と歌われています。そして最後に「われ主に、主は、われにありて、 天こそとこよの、わが家となれ」と歌われているのです。  「天」が永遠に私たちの住まい(わが家)であるとは、どういう意味でしょうか。 それは、私たちの罪の贖い主(救い主)は十字架の主イエス・キリストのみであられ、 その十字架の主が、私たちを「天の住処」に迎えて下さるということです。だからこ そ使徒パウロは、エペソ書2章19節に「神の家族」という言葉を用いています。「そ こであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であ り、神の家族なのである」と言うのです。キリストの十字架の贖いの恵みによって、 私たちは天に住処を持つ者とされているのです。  パウロは同じエペソ書2章12節に、私たちはみな例外なく「この世の中で希望も なく神もない者」であり、神から「遠く離れていた」者であったと語っています。ま さに、その私たちのためにキリストは「御自身の血によって」罪の贖いを成し遂げて 下さいました。そして「二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にか けて滅ぼして」下さったのです。  まさしく、この十字架の主の御業によって、私たちは「神の家族」とならせて戴い た。それが目に見える形で現れているのがこの教会なのです。それならば、私たちは ここで、御言葉と御霊の主権のもと、はじめて人生の本当の意味と目的を知りうるの です。キリストの御身体なる教会においてこそ、私たちは自分を本当に活かしめる真 の「身体」を持つからです。それは、キリストの復活の御身体と等しい「永遠の生命」 です。その新しい生命に生かされてこそ、そこで私たちははじめて、この人生が自分 の欲するままを行うためではなく、父なる神の御心を行うためにこそ、備えられてい ることを教えられるのです。  かつて、ギリシヤの哲人アリストテレスは、人間の中には「現実態」と「可能態」 の二つの性質があると述べました。現実態とは、いま現にある状態のことであり、可 能態というのは、あるべき可能性のことです。アリストテレスによれば、この二つの 形質が重なり合えば、その人生は幸福だということになります。逆に、その二つが重 ならなければ、それは不幸な人生だということになるのです。つまり人間の持つ可能 性が最大限に発揮される人生が、幸福の人生なのだと言うのです。自己目的の完全な 実現に、人生の目的があると言うのです。そこから、苦しみや困難というものは否定 的に理解されます。これは今から2300年も前の学説ですが、近代においても産業革 命時代の合理的人間論などに受け継がれてきました。そして今日もなお、私たちはこ うした自分中心の幸福観に捕らわれているのではないでしょうか。  しかし、宗教改革者カルヴァンは、まさに今朝の御言葉の解き明かしにおいて、そ れとは全く別の幸福論を展開しています。それは、人生の目的とは「まことの神を知 り、神を正しく礼拝することにある」と言うのです。このことなくして人間は人間た りえないのです。もし、私たちの幸福がアリストテレスの言うように、自己実現の可 能性の大きさにあるのだとすれば、その場合の幸福とは、偶然性と、その人間の能力 だけが支配する幸福になります。現代における能率主義の幸福観は、運と強さに恵ま れた者だけが幸福になれるという論理にすぎません。  私たちは、主イエス・キリストに結ばれ、キリストを信じ、キリストの贖いの恵み の内を歩むとき、そのような軽薄な幸福観から徹底的に自由な者とされます。それを 何より力強く示している御言葉こそ、今朝のヨハネ伝6章38節以下なのです。ここ で主が言われた「自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたか たのみこころを行う」人生こそ、私たち人間にとって真に意義ある、祝福された、幸 福な人生なのです。私たちは主イエスのように「天から下ってきた」者ではありませ ん。むしろ主イエスが私たちのために「天から下ってきて」下さったのです。ただ自 分の可能性の実現だけに汲々として、少しも神の御心を行うことを求めない私たちの ために、主イエスは、神のみもとから下って来られ、私たちの罪の贖いとして十字架 にかかって下さったのです。少しも御自分の意ではなく、ただ天の父なる神の御心を 行って下さったのです。 私たちは、単なる人間にすぎないにもかかわらず、自己実現によって神にまでのし 上がろうとする「罪」に捕われていました。しかし主イエスは、神の御子であられる にもかかわらず、全てを献げて人となられ、十字架への道を歩んで下さったのです。 さきほどのエペソ書2章の言う「二つのもの」とは、まさしくこの二つの生きかたの 違いです。それを「ひとりの新しい人(新しい身体)に造りかえて平和をきたらせ、 十字架によって、二つのものを一つのからだと」するために、主イエス・キリストは、 十字架にかかられ、生命を献げて下さったのです。 昔に較べて比較にならぬほど自己実現の機会が多いこの現代において、なぜ、かく も多くの人々が悲しみ、罪を犯し、希望を持ちえなくなっているのでしょうか。それ は全て、カルヴァンの言うように「まことの神を知り、神を礼拝する」人生の真の目 的を見失っているからではないでしょうか。十字架の主イエス・キリストを見失って いるからではないでしょうか。  私たち人間の罪を解決して下さるかたは、天から遣わされた御子イエス・キリスト 以外にはないのです。キリストのみが、私たちの身代わりとなって死んで下さり、罪 を赦し、永遠の生命へと甦らせて下さいます。神から離れていることにさえ気がつか ないほどに罪の支配を受けていた私たちが、このキリストの十字架によって「ひとり の新しい人(身体)に造りかえられ」てゆくのです。「ひとりの新しい人」とは「キリ ストの身体なる教会」のことです。私たちは教会に結ばれてのみ、本当に私たちを活 かしめる真の身体を持つ者とされるのです。  インドのコルカタで、飢えや病気のため、人知れずに死んでゆく多くの人々に手を 差伸べ、その人々のための奉仕に全生涯を献げたマザー・テレサについて、ある人が 「彼女はノーベル平和賞を貰ったので、その苦労が報われ、幸福であった」と語りま した。私はそうは思いません。たとえノーベル賞を貰っても、貰わなくても、誉めら れても、非難されても、彼女は同じように、喜んで貧しい人々のために生き、同じよ うに働き、同じように死んでいったに違いないのです。そして彼女に「あなたは幸せ ですか」と問うたなら、彼女はきっとこう答えたでしょう「はい、とても幸せです。 主が共にいて下さいますから」。そこに、彼女の尽きぬ幸福がありました。そしてそれ は私たち一人びとりにも、主が与えておられる幸福であり、幸いの人生なのです。人 生のいかなる場面においても、悩みにも、苦しみにも、喜びにも、悲しみにも、キリ ストと共に歩み、キリストに贖われた者として、罪の赦しの喜びの内に歩む人生。そ して、自分の意を実現するのではなく、主の御心に勇気をもって従う人生。その人生 こそ、私たちキリスト者の真の幸いの人生なのです。  今朝の御言葉の最後の39節と40節で、主はこう語っておられます。「わたしをつ かわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わ ずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信 じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人を終 りの日によみがえらせるであろう」。  主が言われる「わたしに与えて下さった者」とは、40節に「子を見て信じる者」と あるのと同じ人々のことです。つまり、十字架のキリストを人生の「主」として信じ、 告白して、教会に連なる全ての人々のことです。ここで主が求めておられるものは「イ エスは主なり」と告白し、教会に連なって生きる「信仰の生活」なのです。そして、 教会に連なる私たちを「ひとりも失わずに、終りの日によみがえらせる」ことこそ、 天の父なる神の「御心である」と言われるのです。なによりも40節の最後に、主イ エス御自身が「わたしはその人を終りの日によみがえらせる」と言われます。  これは、何を意味しているのでしょうか。それは「わたしをつかわされたかたのみ こころを行う」ことが、主イエスにとって、まさに十字架の歩みであったということ です。あのゲツセマネの祈りにおいても、主は「アバ父よ、もしできるなら、この杯 をわたしから取りのけて下さい」と祈られ、しかし同時に「しかし、わたしの思いで はなく、みこころのままになさって下さい」と祈られました。この「杯」つまり十字 架が父なる神の御心であるなら、その御心をこそ、私の身に実現ならせたまえと祈ら れたのです。  それならば、今朝のこの38節から40節までの御言葉は、ゲツセマネの祈りの先取 りであると言わねばなりません。全人類の罪の贖いのために祈られた主の愛と恵みの 真実が、私たちの「罪」の暗黒と混乱の中で、祝福と生命の調べを鳴り響かせている のです。私たちを、その祝福と生命のもとに生きる者として下さるのです。「子を見て 信じる者が、ことごとく永遠の命を得る」とは、そういうことです。私たち一人びと りが、改めてキリストを「主」と信じる信仰の歩み(教会生活)へと招かれているの です。その歩みの中で、死に打ち勝つ生命を与えられているのです。  「わが天より降りしは、我が意をなさん為にあらず、我を遣し給ひし者の御意をな さん為なり」。この主の御言葉を常に心に鳴り響かせつつ、私たち一人びとりが、神の み栄えを現わす「キリスト者の大願成就」に邁進して参りたいものです。