説   教   申命記7章6〜8節  ヨハネ福音書6章36〜37節

「神の選びの恵み」

2008・07・20(説教08291228)  古来、宗教には、大別して二つの形があります。一つは「受容の宗教」もう一つは 「拒絶の宗教」と呼ばれるものです。まず「受容の宗教」には、垣根というものが一 切ありません。誰が近づいて来ても、すぐ受け容れてくれる。決して拒まない。難し い規則や決まりもない。教義というものもない。道徳も大らかなものです。あるのは 漠然とした「神」のごとき存在だけである。たとえば、神社の神道などはその代表格 です。神道には「教義」というものはありません。あるものは強いて言えば「何もの のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という宗教感情だけであり ます。  これに対して「拒絶の宗教」と呼ばれるものがあります。容易なことで人は近づけ ない。「来る者は拒まず」ではなく「来る者は、必ず拒む」宗教です。たとえば日本で 申しますと、仏教の臨済宗や曹洞宗など、いわゆる「禅系の仏教」がそれにあたりま す。イスラム教やユダヤ教もそうです。夏目漱石の「門」という小説に、主人公の青 年が人生に行き詰まり、鎌倉の円覚寺を訪ねる場面が出てきます。堅く閉ざされた門 の前に立って、その青年は途方に暮れる。ついに思い余って力いっぱい門を叩いてみ る。すると内側から声がする。「叩いたって駄目だ。自分で開けて入れ」。かくして、 途方に暮れたまま日が暮れるという場面です。これは漱石の心に映った「拒絶の宗教」 の心象風景です。  さて、それでは私たちの宗教、キリスト教はどうなのでしょうか。キリスト教は「受 容の宗教」なのでしょうか。それとも「拒絶の宗教」なのでしょうか。まず、今朝の 御言葉の36節を見て参りましょう。ここに主イエスは「しかし、あなたがたに言っ たが、あなたがたはわたしを見たのに、信じようとしない」と仰っておられます。こ の「しかし」は強い言葉です。「われは生命のパンなり」と明確に言われた主イエスの 御言葉を、主イエスに親しくお目にかかっている人々さえ「信じようとしない」と言 われるのです。ここに、私たち人間の罪の姿が示されています。つまり、私たち人間 は、イエス・キリストを直に見て、その御言葉を聴いてさえなお、キリストを信じよ うとはしない。それほど頑なな心の持主なのです。  ここには一見「拒絶の宗教」の要素が現れているかのように見えます。ただキリス トの周りにいるだけでは駄目だ、ファンになるだけではいけない。御言葉を聞くだけ でもいけない。キリストを信じる者にならなくては“キリストの弟子”とは言えない と、そう言われているように見えるのです。実際に主は、御自分を慕って集まってく る者たちを、拒絶しておられるように思えるのです。  しかし、続く37節の御言葉を読みすと、どうも、それだけではないということが 分かってきます。主は言われるのです。「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに 来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない」。ここに「わたしに来 る者を決して拒みはしない」と主は仰っておられる。それならば、そこに示されてい るものは「受容の宗教」そのものではないか。主は私たちを「拒絶」しておられるか と思えば「受容」され、「受容」しておられるかと思えば「拒絶」しておられる。どち らが主イエスの本当のお姿なのでしょうか。  このことはいったい、何を示しているのでしょうか。主イエスの御教えは、「受容」 でも「拒絶」でもなく、その中間を行くものなのだ、ということなのでしょうか。二 律背反(アンビバレント)なこの姿こそ、キリストの御人格の深みだと、ドイツのハ ルナックという神学者は申しております。そこに私たちは、言い知れぬ魅力を感じる のであり、そこにキリスト教の本当の深みがあるのだと言うのです。しかし、本当に そういうことなのでしょうか。  そうではないと思うのです。今朝の御言葉に示されていることは、単に主イエスの 「御人格の魅力」ということで片付けられないと思うのです。そうではなく、私たち はここで、まず主の御言葉そのものを正しく聴き取るべきです。そのとき、私たちの 心に改めて迫って来る御言葉があります。それは、37節に示された「父がわたしに与 えて下さる者は皆、わたしに来るであろう」という御言葉です。これこそ「受容」と 「拒絶」を繋ぐ鍵となるものです。  まず「父が」と主イエスが仰っておられることに注目したいのです。この「父」と は申すまでもなく、天の父なるまことの神のことです。主イエス・キリストの父なる 神であります。そこで、主イエスは続く38節に「わたしが天から下ってきたのは、 自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行 うためである」と語っておられます。この「わたしをつかわされかた」こそ「天の父 なる神」であり、主イエスはその御意志を行うために「天から下ってきた」おかたな のです。  私たちのこの世の、どのような組織にも、かならず“入会の条件”というものがあ ります。“会員になる資格”というものがあります。学校ならば、入学試験に合格した 者です。特別な仕事なら、その仕事ができる能力を有する者です。会社や組織ならば、 その会社や組織が求めるスキルのある者です。趣味のサークルならば、そのサークル の趣旨に同意し、会費などを納めている者です。その他どんな組織にも、かならず入 会の資格というものがあるのです。  これを、さきほどの宗教の分野に広げてゆきますと、たとえば「受容の宗教」と「拒 絶の宗教」の違いは、それぞれの、入会の資格の厳しさの違いだということが分かり ます。「受容の宗教」にしても「拒絶の宗教」にしても、ある一定の条件を人に求める ことは同じなのです、ただ、その条件の厳しさが違うだけです。大所局所から見るな ら、その両者の間に大した違いはないのです。共通することは、その「資格」や「条 件」は、人間の側が持っているものだということです。つまり人間の側に“救いの根 拠”があるのです。その最たるものはユダヤ教です。私たちは聖書を通して、使徒パ ウロの、かつて彼がパリサイ人サウロであった時の声を聴くことができます。たとえ ばピリピ人への手紙3章に、パウロはかつて「パリサイ人サウロ」と名乗っていた時 の自分のことを、次のように書いています。  「もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を 頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目 に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の 中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義につ いては落ち度のない者である」。  これは、当時のイスラエル社会において、考えられる限り最高の超エリートコース です。「肉の頼み」というのは「この世の誇り」という意味です。もしこの世の誇りが 自分を神の救いに導くなら、自分こそ救われて当然の者であったと、パウロは語るの です。「しかし」と、パウロは申します。  「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思う ようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶 大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしは すべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしが キリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰に よる義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見い だすようになるためである」。  ここにパウロは「律法による自分の義」などではなく「キリストを信じる信仰によ る義、すなわち、信仰に基づく神からの義」のみが、自分を真の救いへと導いたのだ と語っています。つまり、自分の側の資格や条件によってではなく(パウロは、その 条件『肉の頼み』を溢れるばかり持っていたのですが)人間が救われるのは、そのよ うな「律法による自分の義」によるのではない。ただ「キリストを信じる信仰による 義」によってのみ、人間は救われて、永遠の生命、すなわち「神の国」に生かされる 者となるのだと語っているのです。  主イエスは、私たちがいつも心にとめるべき大切な事柄として、しばしば「選びの 恵み」を語っておられます。たとえば、同じヨハネ福音書の15章16節に、主は「あ なたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そし て、あなたがたを立てた」と言われました。「それは、あなたがたが行って実をむすび、 その実がいつまでも残るためである」と言われたのです。ここには、私たちが救われ るのは、少しも私たちの側の資格や条件によるのではないことが、はっきりと明言さ れています。「律法による自分の義」は、完膚なきまでに否定されています。私たちを 罪から救って「神の子」となすものは、イエス・キリストによる恵みの選びによるの です。他のいかなる根拠もないのです。ただキリストの恵みの選びのみが、私たちの 救いの根拠なのです。だから、そこには「受容の宗教」も「拒絶の宗教」もないので す。あるものは「選びの恵み」のみであります。だから、キリスト教を敢えて表わす なら、それは「神の選びの恵みの宗教」になるのです。「受容」でも「拒絶」でもなく、 ただ「神の恵みの選び」のみが、私たちの変わらぬ救いの根拠なのです。だからこそ、 私たちが神から賜わる救いの恵みは確かな恵みなのです。  もし、私たちの側の資格や条件が少しでも加味されるなら、そのようなものは長い 人生の中で、どうにでもなってしまうでしょう。かつては持っていた資格は、些細な ことで失われることもあります。かつてはあった条件が、次の日には役立たなくなる こともあるのです。健康であった人が病気になり、若かった人は年老いてゆくのです。 しかし「神の選びの恵み」だけが私たちの救いの根拠であるなら、それは色褪せたり、 失われたり、役立たなくなることは絶対にありません。そればかりではなく、その恵 みは死によってさえ、失われることはないのです。「命あっての物種」とは、この世の 常識ではあっても、「神の選びの恵みの宗教」たるキリスト教の常識ではありません。 キリストの選びの恵みは、常識を遥かに超えたものです。キリストの恵みの主権は、 死の彼方にまで及ぶのです。それは、キリストは罪と死を十字架において打ち滅ぼし、 勝利して下さった唯一の救い主だからです。  新しく長老や執事に選ばれた人たちが、異口同音に必ず言われることは「これはた だ神の選びの恵みによることだと信じます」ということです。言い換えるなら「この 務めに召されたのは、少しも自分の力によることではない」ということです。だから 「畏れ」を感じざるをえないのです。それは長老や執事の務めだけではありません。 私たちはみな、同じ「神の選びの恵み」によって、いまここに信仰の歩みをしている のではないでしょうか。 自分がなぜ、選ばれて教会に集うているのか。礼拝を献げる一員となっているのか。 そもそもなぜ、自分がキリストの救いを戴くようになったのか。自分の中にその理由 はないのです。それはただ「神の選びの恵み」によることなのです。だから、私たち もまた「畏れ」を懐かざるをえません。教会の中での様々な奉仕のわざや務めも同じ です。私たちの側に資格や条件が備わっているからではなく、神はただ「選びの恵み」 により、私たちをその務めに任じて下さったのです。私たちの思いや計画ではなく、 ただ神ご自身の「選び」によることなのです。  キリストの弟子たちもそうでした。彼らがなぜ、キリストの弟子とされたのか、人 間的な事柄ではどうしても説明がつかないのです。イスカリオテのユダのような者さ えいたのです。ペテロでさえ、主を三度も裏切ったのです。トマスは徹底的な疑いの 人であったのです。それなのに、彼らはキリストの弟子とされました。それはただキ リスト御自身の「選びの恵み」によることです。それならば、私たちに求められてい ることは、その「選びの恵み」に信仰をもってお応えすることのみではないでしょう か。自分の足もとを見つめる従来の生きかたを方向転換し、ただ招きたもうキリスト に自分の存在と生活の全てを委ね、キリストの御声に聴き従う歩みを造ってゆくこと こそ、私たちの信仰の歩みです。「自分の義」をかなぐり捨て「キリストを信じる信仰 による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見 いだすようになる」ことこそ、私たちの変わらぬ喜びです。そこに、私たちの真の喜 びと平安、自由と勇気の生活が造られてゆくのです。  ローマ書6章12節以下の御言葉を心にとめましょう。「だから、あなたがたの死ぬ べきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたが たの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かさ れた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるが よい。なぜなら、あなたがたは律法のもとにあるのではなく、恵みの下にあるので、 罪に支配されることはないからである」。  まさにこの「律法の下にではなく、恵みの下にある」という事実こそ、今朝の御言 葉によって主イエスが、私たち一人びとりに告げて下さった「選びの恵み」でありま す。その、選ばれた者たちは、みな、主イエスのもとに連なるのです。キリストに結 ばれて生きるのです。その者を、私たち全ての者を、主は堅く御自身に結び合わせて 下さり、生命のかぎり、否、死を超えてまでも、変らぬ恵みの主権の下におらせて下 さるのです。