説    教    申命記8章2〜5節  ヨハネ福音書6章34〜35節

「われは生命のパンなり」

2008・07・13(説教08281227)  「彼らはイエスに言った、『主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい』。イエス は彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることが なく、わたしを信じる者は決してかわくことがない』」。これこそ今朝、私たち一人び とりに与えられている、主イエス・キリストの御言葉です。  主イエスを取り巻く人々は「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」と願う ようになりました。これは不思議なことです。それは、いままで私たちが読んで参り ましたように、人々は主イエスの御言葉を正しく聴いておらず、むしろ自分勝手な姿 ばかりが示されていたからです。それなのに、ここで人々は初めて「主よ、そのパン をいつもわたしたちに下さい」と願うようになりました。主イエスが与えたもうパン を、熱心に求める者になっているのです。 なによりも、ここで人々は初めて、主イエスを「主」と呼んでいます。この「主」 とは、ただ神を礼拝する時にのみ用いられる言葉です。もっとも、こののち41節以 下のところでは、人々は再び主イエスに向かって「つぶやき始めた」とありますから、 これだけで人々が「イエスは主なり」と告白したと言うことはできません。しかし少 なくとも彼らは、主イエスが神から遣わされたキリスト(救い主)であり、主が与え て下さる「パン」は世が与えるものとは違うのだと、理解しはじめているのです。  私の大先輩である、ある牧師先生がまだお若い頃、今から90年ほども昔のことで すが、1910年(明治43年)に九州のある地方都市の教会に赴任されました。そこで の伝道の戦いを回想されたある文章の中に「求めていない人々にパンを与えることほ ど難しいことはなかった」と書いておられます。この場合の「パン」とは、もちろん キリストの福音のことです。人々は福音を求めていない。譬えるなら、福音以外のも ので満腹し、満足してしまっている。だから、教会が一所懸命伝道しようとしても、 町の人々は耳を貸そうとしない。私は最初、そういう意味だと思ってその文章を読ん でいました。しかしその先生が言われることは、もっと深いことでした。  その先生が言われる「人々」とは、実は町の人々のことではなく、ご自分が遣わさ れた教会の教会員のことでした。教会の中にさえも、本当に「生命のパン」を求めよ うとはしない、人間の罪の現実が渦巻いているのだというのです。教会だから、主の 御言葉を正しく聴いていると、当然のことのように思うことはできないのです。この 牧師先生の本当の伝道の戦いはそこにあったのです。  顧みて、今日の私たちはどうでしょうか。私たちは本当にここに、主イエスが賜わ る「生命のパン」のみを求めてやまぬ“まことの教会”を、建てていると言い切れる でしょうか。御言葉の「パン」を、全てにまさって慕い求めていると断言できるでし ょうか。御言葉のパンに満たされ、養われることを、いま心から願っているでしょう か。むしろ私たちこそ「御言葉のパン以外のもので満腹している人々」になってはい ないでしょうか。そのことを改めて、今朝の御言葉を通して問われているように思う のです。  主イエスは、マタイ伝5章3節に「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天 国は彼らのものである」と言われました。そしてルカ伝6章21節には「あなたがた、 いま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである」と語られ ました。そして、さらにルカ伝6章24節25節に「しかし、あなたがた富んでいる人 たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。あなたがた、今満腹し ている人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである」と言われました。  「こころの貧しい人たち」とは福音によってみずからの貧しさを知り、「生命のパン」 をせつに求めている人々のことです。逆に「今満腹している人たち」とは、自分が豊 かで富んでいると自惚れ、「(御言葉を)求めていない人々」のことです。御言葉の「パ ン」などなくても、自分たちは立派に生きてゆけると自負している人々です。そうい う人々が世の中にいることは、ある意味で当然でしょう。本当の伝道(教会形成)の 課題は、そういう「(御言葉以外のもので)満腹してしまっている人々」が、教会の中 にさえいることなのです。そういう価値観が、教会の中でさえ幅を利かせることです。 主イエスの言われる「わざわいである」とは「もっとも不幸である」という意味で す。人間にとって真の不幸とは、この世の事柄に満ち足りていないことではなく、主 がお与えになる御言葉の「生命のパン」を求めようとしないことなのです。「生命のパ ン」以外のもので「満ち足りてしまっている」ことが最大の不幸なのです。その最大 の不幸に、私たちはなかなか気がつかないのです。財産が増えること、健康であるこ と、友人が多いこと、地位や肩書きがあること、家族に恵まれること、立派な業績を 上げること、人に敬われ、重んじられること、そういう「この世の事柄」に、人生の 幸いの基準を置いてしまうのです。  だからこそ、私たちは問われています。「われは生命のパンなり」と明確にお告げに なった主イエスの、その「生命のパン」を、いま私たちは求める者となっているでし ょうか。本当の幸いを知る者になっているでしょうか。この「われは…何々なり」と 言われる主イエスの御言葉は、ヨハネ伝に特有の言葉遣いです。「われは世の光なり」。 「われは道なり、真理なり、生命なり」。「われはよみがえりなり、生命なり」。「われ は羊の門なり」。それ以外にもたくさんあります。いずれにも共通していることは、主 イエスははっきりと“御自分を指して”福音を語っておられるということです。これ は何人もなしえず、ただ神の御子のみがなしうることです。言い換えるなら、私たち は神の御子イエス・キリストを抜きにして、人生を真の幸いへと導く「真理の基準」 を持ち得ないということです。 船や飛行機はいつも、自分が進むべき正しい方向を、ナビゲーターによって導かれ ています。同じように私たちは、自分の外に「真理の基準」を持たなければ、迷うほ かはないのです。自分に満足し、おのれの義に拠り頼むだけなら、かならず道を踏み まちがうのです。主なるキリストにのみ、私たちを導く唯一の「真理の基準」がある のです。キリストが私たちの人生のナビゲーターであってこそ、はじめて正しい道を 歩むことができるのです。それならば、求めるべきものは、おのれ自身に満ち足りる ことではなく、キリストの賜る「生命のパン」に養われることです。神に向かって飢 え渇く者になることです。それこそ、主イエスの言われる「心の貧しい人たち」です。 そのとき「天国は彼らのものである」と主は言われるのです。 宗教改革者ルターは、有名な讃美歌267番に「わが命も、わが宝も、取らば取りね。 神の国は、なおわれにあり」と歌いました。これは「この世のものが取り去られても、 神の国だけは残る」という消極的な意味ではありません。キリストを信じ、キリスト に結ばれて、神の国を受け継ぐ者となるなら、主はそのほかのものをも、すべて祝福 として私たちの人生に与えて下さり、それを豊かに用いて下さるのです。だからマタ イ伝6章33節にこうあります。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、 これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。  この大切な順序を、私たちは履き違えてはなりません。「神の国と神の義」は後回し にして、まずこの世の幸福と満足を求めようとする私たちを、十字架の主の御招きに 委ねましょう。主は「わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉であ る」とはっきりと言われました。この「生命のパン」なるキリストのもとに、私たち はいま招かれているのです。そのパンにあずかる者とされているのです。まず御言葉 の糧(生命のパン)に養われてこそ、私たちは本当の平安と希望と勇気をもって、人 生行路を歩むことができるのです。  いわゆる有名大学を卒業し、エリートコースをまっしぐらに進み、人も羨む大企業 に就職し、名をたて身を上げることが人生の目的とばかり、仕事一筋に生きていた人 が、あるとき突然、脳腫瘍の宣告を受けました。まだ若くして余命僅かであることを 宣告された彼は、それまで自分を支えていたと思いこんでいたものが、どんなに空し く、支えにならないかを、改めて思い知らされました。そして彼は闘病生活の中で、 妻と共に生れて初めて教会の礼拝に出席し、キリストの福音に接して、そこにこそ真 に自分が求め続けていた「生命の糧」があることを見出し、やがて妻と共にクリスマ スに洗礼を受けたのでした。そればかりではなく、その信仰生活を見た職場の同僚が、 彼の死を通して教会に導かれ、同じように洗礼を受けました。「生命のパン」の祝福の 連鎖が、そこに起こったのです。  「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。この切なる祈りと願いに、主は豊 かに応えて下さるのです。主は御自身を私たちに与えて下さったのです。私たちの罪 と死とを十字架において贖い取って下さったのです。私たちを復活の生命に満たし、 永遠の生命に支えて下さるのです。御言葉への飢え渇きは、ただ十字架の主のみが満 たして下さいます。その養いにおいてこそ、私たちは真に健やかな“主の群れ”であ りうるのです。本当の希望の人生は、ただそこから始まるのです。なぜなら、主イエ スはいつも明確に御自分をお指しになって、はっきり告げていて下さるからです。「わ たしが命のパンである」(「われは生命のパンなり」)と。そして私たちに約束して下 さるのです。「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して 渇くことがない」と。 世のために与えられる「生命のパン」であられるキリストに、私たちはいま、教会 を通して豊かにあずかる者とされているのです。主は御自身の全てを、私たちの罪の 赦しと、贖いと、新しい生命のために、献げ尽くして下さいました。私たちはその「生 命のパン」であられるキリストにあずかり、キリストによって生かされ、養われ、祝 福され、導かれつつ、変わることなきキリストの主権のもとを、信仰の生涯を歩む者 とされているのです。