説    教   詩篇89篇8〜9節  ヨハネ福音書6章15〜21節

「嵐の中の平安」

沼津香貫教会礼拝説教 2008・06・29(説教08231225)  その日、弟子たちは自分たちだけで、ガリラヤ湖を舟で渡ろうとしていました。ま ず、今朝の御言葉であるヨハネ福音書6章15節を見ますと「イエスは、人々が来て、 自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」 とあります。主イエスがなさった数々の不思議なわざの噂を聞いた人々は、主イエス を「連れて行って(でも)王に(祭り上げようと)して」いたのです。その企てを知 られた主は、ただお一人で「山に退かれた」のでした。  主イエスが世に来られた目的は、全ての人々の罪の贖いとして十字架におかかりに なり、罪の贖いによる真の救いを成し遂げられるためです。しかし、それを全く理解 しない群集が、主イエスを政治的な「王」に仕立てようとしていました。主イエスは こうした場面で、しばしば「山に退いて」おられます。それはなによりも祈り(礼拝) のためでした。  ガリラヤ湖は周囲を緑の山々に囲まれており、どの山の上からも、湖の様子が非常 によく見わたせます。私ごとですが、私は17年ほど前にガリラヤ湖を訪ね、主イエ スが「パンの奇跡」を行われたと言われる丘に登りました。空気が乾燥している所為 か、そこからは湖の向う岸の様子まではっきりと見えました。ですから、弟子たちだ けでガリラヤ湖を渡っていた時にも、主イエスは彼らのことを「見ておられた」のだと 言えるでしょう。 しかし、それだけではありますまい。なによりも主は、祈り(礼拝)のために「山 に退かれ」たのです。それは主イエスが弟子たちを、深い祈り(礼拝)のうちに覚え ておられたということです。ただ単に眼で捉えていただけではなく、主イエスは絶え ざる祈りと礼拝(御言葉と聖霊)によって、いつも弟子たちと(私たちと)共にいて 下さるおかたなのです。 このことは、とても大切なことです。弟子たちからは、主イエスのお姿は見えませ ん。私たちの人生にも、同じことがあるのです。「こんなに苦しむ私のことを、主は見 ておられないのだろうか?」そういう疑念を抱くことがあるのです。しかし主イエス は、弟子たちと(私たちと)いつも共にいて下さいます。私たちが主イエスを見失い、 恐れに捕われる時にも、主は変わることなく、私たちと共にいて下さるのです。  ガリラヤ湖は短いところでも対岸まで約12キロあります。しかも突然、突風が吹 いて2メートルもの大波が立つことがありました。弟子たちの多くはもと漁師でした。 特にペテロは熟練の漁師であり、ガリラヤ湖の恐ろしさを知り尽くしていましたが、 彼らがこのとき遭遇した嵐は、今まで経験したことのない激しいものだったのです。 今朝の御言葉の16節以下を見ますと「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下り て行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に 暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」と記されて います。 この17節の終わりの言葉に、この時の弟子たちの言い知れぬ不安を読み取ること ができます。嵐の夜の海ほど恐ろしいものはありません。弟子たちは自分たちが危機 的な状況にあることを知り、そこに主イエスが共におられない事実に、焦りと苛立ち を顕わにしたのです。しかも次第に強まる波風の中を、すでに舟は19節にあるよう に「二十五ないし三十スタディオンばかり(も)漕ぎ出し」ていました。1スタディ オンは約185メートルですから、仮に「25スタディオン」としても、弟子たちの舟 は5キロ近くも沖に出ていたことになります。迫り来る闇の中で進路を見失い、沈む ばかりの恐怖を経験したのです。  私たちの人生にも、これと同じ場面があるのです。進むことも引き返すこともでき ず、周囲は荒れ狂う波ばかりという、恐ろしい場面に出遭うのです。しかも私たちが 最も主イエスを必要とする、そういう場面に、主イエスは私たちと共におられないよ うに私たちは感じるのです。この時の弟子たちの焦りと苛立ちは、私たちのものでも あるのです。「主よ、あなたはどうして、苦しみ悩む私を、お見捨てになるのですか?」 「この肝心な時に、どうして私を一人にするのですか?」。恨みごとを言いたくなる場 面です。遠藤周作の作品に「沈黙」という小説がありますが、私たちが苦難を受けて いるあいだ、沈黙を続けておられる(ように見える)神に、私たちの恐れと苛立ちは いっそう募るのです。  しかし、そのような場面でこそ、主イエスは私たちに、はっきりと約束して下さっ ているのではないでしょうか?。それは同じヨハネ福音書14章1節の御言葉です。「心 を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。そして14章18 節「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻っ て来る」と主は言われました。同じように16章33節には「これらのことを話したの は、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難が ある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とも語っておられ ます。私たちは、こうした主の御言葉を、正しく聴いているのでしょうか。  私たちは、自分たちの目に主イエスが見えないことは、主イエスの目にも私たちが 見えないことだと、愚かにも決めつけるのではないでしょうか。私たちが主の御姿を 求めているとき、主は私たちを忘れているのだと決めつけるのです。そのようにして 私たちは、自分を取り囲んでいる人生の波風だけに心奪われ、恐れのあまり進むべき 方向を見失い、やがて沈没してしまうのです。弟子たちが乗っているこの小さな舟は、 私たちの人生そのものの象徴なのです。それはいま、激しい波風に遭い、沈没してし まいそうなのです。  私たちの力は、突如として襲いかかる人生の嵐の前に、余りにも無力です。愛する 夫が全身不随の病気に冒され、日ごろの気丈さはどこえやら、なすすべも無く動揺さ れた婦人がおられました。当然でありましょう。私たちの経験や知恵や力はもちろん、 信仰さえも、せいぜい岸から「二十五ないし三十スタディオン」のところで力尽きて しまうのです。帆を上げても、降ろしても、漕いでも、漕がなくても、絶望的な事態 はなにも変らないように見えるのです。しかも容赦なく、滅びの時だけは近づいてい ます。なに一つとして助けとなるものはなく、私たちは自らの無力さと空しさを、嫌 というほど味わわされるのです。  どうか、そのような所でこそ、私たちは主イエスの御言葉に堅く立ち続けましょう。 「心を騒がせるな」と語られ「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」 と約束して下さり、さらに「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しな さい。わたしは既に世に勝っている」と言われた主の御言葉を、いまこそ正しく聴く 者になりましょう。たとえ、私たちの目に主イエスの御姿が見えなくても、主イエス の御目には、私たちの姿はいつも見据えられ「見守られて」います。主はまさに、深 い祈りと礼拝の中で、御言葉と聖霊によって私たちと共におられ、私たちの人生航路 全体を見守って下さるのです。私たちが主を忘れているときも、主は私たちを決して お忘れになりません。人生の荒波のただ中でこそ、進むべき道を指し示して下さるの です。私たちの全存在を、罪の深淵から守り、決して沈むことのないようにして下さ るのです。  マタイ福音書14章の同じ記事を見ますと、弟子たちは(私たちは)自分の恐れに 捕われるあまり、嵐の海の上を歩いて近づいて来て下さる主イエスのお姿さえ、それ が「幽霊」だと「恐れた」と記されています。この「幽霊」とは“ファンタスマ”す なわち「幻想」ということです。私たちは主イエスを「幻想」としてしまうのです。 私たちの混乱した心には、真の助けさえ「幻想」のように映るのです。自分で幻想に 捕らわれ、尊い救いの機会を失ってしまうのです。しかし主イエスは、私たちを人生 の「幻想」に捕らわれたまま放置なさいません。あるアメリカの神学者が「キリスト 者の信仰は、人間を虜にする全ての幻想から私たちを解き放ち、真のリアリティ(真 実)へと導くパスポートである」と語っています。  まさに私たちに、そのリアリティ、神が共にいて恵みをもって支配して下さる人生 の真実に堅く立ち、生きる力と平安とを与えて下さるかたこそ主イエスです。主は嵐 の中でこそ、私たちに御声をかけて下さいます。20節です「イエスは言われた。『わ たしだ、恐れることはない』」。この「わたしだ、恐れることはない」というのは、文 語訳の聖書では「我なり、懼るな」です。少し難しい漢字ですが、この「懼れる」と は「かしこまる」という字です。身動きできなくなる(固まってしまう)という意味 です。私たちは人生の中で「幻想」に捕われ、まことの神を見失うとき、そこで身動 きできず、固まってしまうのです。まことの神から離れた人生は、人生の意味と目的 を見失った、硬直した人生です。人間としての喜びと幸いが失われてゆくのです。  このときの弟子たちが、まさにそうでした。彼らは波風に対して必死で立ち向かっ てはいます。人間としての最善は尽くしています。しかし、そこで仰ぐべきおかた、 信ずるべき主イエスの御姿を見失っているがゆえに、その人生航路は空しく硬直し、 固まったものになってしまっているのです。まさに、そのような私たちの現実の中で こそ、主イエスは御声をかけ、私たちを「幻想」から解き放って下さいます。硬直し、 絶望し、固まった私たちの人生を、真の喜びと幸いへと呼び覚まして下さるのです。 先ほどのヨハネ福音書16章33節を、もういちど心にとめましょう「あなたがたに は世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。 なによりも、主イエスは今朝の20節で「わたしだ。恐れることはない」と明確に 告げていて下さいます。このように明確に「わたしだ」と、人生の荒波の中で告げて 下さるおかたが、主イエスのほかにあるでしょうか。私たちが漕ぎ悩むとき「こうし たら良い」とか「こうするべきだ」と言う人はいるかもしれない。しかし「わたしで ある。恐れることはない」と、明確に御自分をさして語って下さるかたは、主イエス だけなのです。どんな思想や哲学や人生論も、私たちに知識を伝えるだけで、自分が 「救い主」だとは告げてくれません。ただ主イエスのみが「わたしだ。恐れることは ない」と告げて下さるのです。そのような唯一のキリストとして、私たちの人生のた だ中に、主は御声をかけて下さるのです。  よく「心だにまことの道に適ひなば祈らずとても神や助けん」と申しますが、それ は深刻な苦難の経験をしたことのない人の言葉でしょう。心がどんなに道に適おうと も、神の沈黙に直面するのが本当の人生の苦難なのです。しかし、まさにそのような 嵐の中でこそ、主イエス・キリストは、荒海をも越えて近づいて来て下さり、私たち 一人びとりに「わたしである。恐れることはない」とはっきりと告げて下さいます。 私たちを「みなしご」とはなさらず、助け主なる聖霊を与えて下さいます。私たちの 全存在を支え、導き、慰め、力強く主の道を歩ませて下さるのです。  最後の21節を、今朝の主の約束として堅く心にとめましょう。「そこで、彼らはイ エスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。なんと慰 めに満ちた御言葉でしょうか。私たちがなすべきことは、人生のあらゆる苦難の中で 「イエスを舟に迎え入れる」ことです。ただそれだけで良いと主は言われる。そうす るならば、私たちは必ず「目指す地に着く」ことができるのです。死の力にさえ勝利 された主が、私たちの歩みを導き、堅く支えて下さるからです。主イエスこそ私たち の罪を担って十字架に御自身を献げられた「救い主」(キリスト)です。このキリスト が変わらぬ「主」であられ、永遠に私たちと共におられること、それ以上の幸いはな いのであります。