説     教   イザヤ書55章1〜5節  ヨハネ福音書6章22〜27節

「朽ちぬ食物」

2008・06・15(説教08241223)  タレントや有名人の後を追いかけ、どこにでもついて行く人のことを「追っかけ」 と言うそうです。熱心なファンのことです。芸能人の「追っかけ」はもちろんですが、 葉山には皇室関係の「追っかけ」の姿がよく見られます。主イエスにも、そのような 「追っかけ」の人々がいました。ガリラヤ湖の周囲を走り回るようにして、大勢の群 集が主イエスの後を「追っかけ」ていた様子が、今朝の御言葉からもよく分かるので す。  22節を見ますと「海の向こう岸に立っていた群集」は、もう次の瞬間には、主イエ スが“五千人の給食”を行われた丘に近い岸辺に移動しており、さらにそこから「数 そうの小舟」に分乗してガリラヤ湖を渡り、対岸のカペナウムまで主イエスを「追っ かけ」ています。これだけを見ても、たいへんな労力と移動距離です。24節によれば、 その全てが「イエスをたずね」るためであったと言うのです。  そして25節には、この「海の向こう岸(つまり、カペナウム)で(群集はやっと) イエスに出会った」と記されています。そこで彼らは主イエスに「先生、いつ、ここ においでになったのですか」と申しています。この言葉には恨み言が見え隠れしてい ます。つまり「私たちはこんなに必死に先生の後を“追っかけ”ているのに、どうし て先生は先に行かれるのですか。いまやっと、湖を渡って先生にお会いすることがで きました。もう、私たちから離れないで下さい」と申しているのです。  ここで、私たちが気がつくことは、すでにこの時点で彼ら群集の心は、実は主イエ スにではなく、自分たち自身に向けられているということです。「こんなに一所懸命に 追っているのに、逃げるなんて酷いですよ」と言っているのです。「あなたは私たちか ら離れてはいけないのだ」と言っているのです。主イエスを、自分たちの都合の良い ように動かそうとしているのです。主イエスに指図をしているのです。それがこの時 の群衆の心です。何よりも彼らは、主イエスを捕えて、自分たちの「王」に祭り上げ ようとしていたのです。  私たち人間は、個人でいる時には比較的冷静な判断ができても、ひとたび群集にな ると、とたんに「群集心理」と申しまして、冷静さを失い、取り憑かれたように異常 な判断や行動をとる場合があります。社会や民族や国家という大きな集団において、 しばしば驚くほど異常な行為が現れるのも、群集心理の怖さです。しかし、だからと 言って自分の行為の責任を集団になすりつけるのは間違いです。どんなに大きな集団 も個人から成り立っているからです。  群集は、主イエスにお会いしたとき「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」 と(25節に)訊ねていますが、この疑問文は「ここは、あなたの居場所ではないはず だ」という否定的な意味を含んでいます。「私たちの中にこそ、あなたは、いなくては ならないはずだ」と申しているのです。言い換えるなら「あなたは、私たちの要求を 適えるために存在するのだ」と言っているのです。これが典型的な「追っかけ」の心 理です。相手が自分たちの要求を満たしているうちは「追っかけ」ますが、そうでな いと分かるや否や、とたんに熱が冷め、失望し、憎しみの対象にさえなるのです。「可 愛さ余って憎さ百倍」になるのです。「ホサナ」と歓呼の声を上げて主イエスを迎えた 同じ人々が、もう次の日には「十字架につけよ」と絶叫しているのです。それこそ私 たち人間の姿なのです。  実は、この「追っかけ」に似た心は、時に信仰の世界にさえ現れるのです。信仰と は、神を信じ、キリストによる救いを戴き、神の御言葉によって養われつつ歩むこと です。このときの「神」は、私たちの内側にある願いや理想像ではなく、いわば「絶対 他者」であられるまことの神です。たとえば、カール・バルトという神学者が語って いることですが、究極的にはそれは、私たちが“何を礼拝しているのか”という問題 なのです。たとえ私たちが熱心に神を信じていても、もしも私たちが、自分の願いや 要求を適えてくれるだけの神を信じているのだとすれば、その信仰はいかに熱心であ ろうとも、実はまことの神を信じているのではなく、自分の願いや要求を信じている にすぎないのです。自分の要求を投影した神は、まことの神ではなく、自分自身の影 (また分身)にすぎません。そのとき、神はもはや「絶対他者」ではなく、もう一人 の自分自身にすぎないのです。  それは真の礼拝に直結します。私たちはここで、本当に真実に神の言葉に聴く者と なっているでしょうか。神に従う僕になっているでしょうか。むしろ私たちは、もう 一人の自分を「追っかけ」ていることはないでしょうか。それが信仰だと思いこんで いることはないでしょうか。それと同じ意味で、説教は、説教を正しく語ることもも ちろん大切ですが、説教を正しく聴くことも同じように大切なのです。成熟した教会 とは、御言葉が正しく宣べ伝えられ、それと同じように、説教が正しく“神の言葉” として聴かれている教会です。そこにこそ教会の成熟度が現れるのです。  私たちはキリストの「追っかけ」に留まってはなりません。キリストに真実に聴き 従う「信仰」に歩む僕であらねばなりません。また、キリストを本当に「救い主」と して信じて生きる私たちでありたいのです。主イエスは今朝の御言葉の26節に言わ れました。「よく、よくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきてい るのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」。ここには、 私たち自身のことが言われていないでしょうか。主イエスを「尋ねる」ことは信仰の 姿です。しかしその内実は「パンを食べて満腹したから」パンを求めているにすぎな いのだとしたら、それは「信仰」ではなく「追っかけ」にすぎないのです。  そこで、主イエスが言われるこの「パン」とは、いったい何でありましょうか。主 イエスが「パン」と言われる場合「生命のパン」というように、神の言葉を現わして いる場合が多いのですが、ここでは違うようです。27節に「朽ちる食物のためではな く、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」と主が語られたことでわかる ように、この「パン」とは「朽ちる食物」のことをさしているのです。ではこの「朽 ちる」とはどういう意味でしょうか。ルターが訳したドイツ語の聖書では、この言葉 を「過ぎ行く」「過去のものになる」と訳しています。つまり、主イエスはこう語って おられるのです。あなたがたは、過ぎ行く(過去のものになってしまう)パンを求め るのではなく「永遠の命に至る朽ちない食物のために働く」者になりなさいと。 特に、この「働く」という言葉は「苦労してでも求める」という意味です。自分の 人生をこの一事のために傾注することです。それが「朽ちる食物」のためであっては ならない、むしろ「朽ちない食物」(過去のものにならないまことのパン)のために、 それを「苦労してでも求める」人になりなさいと言われているのです。  ただし、それは、この世の生活を軽視せよということではありません。私たちは肉 体においても存在するのですから、目に見える肉の糧、朽ちるパンも必要なのです。 主イエスもそれを軽視なさいませんでした。飢えた群衆にパンをお与えになりました。 同じように、この世において私たちが担う働きも、主の御心にかなった大切な働きな のです。それを軽んじてはなりません。だから、今朝のこの御言葉は、世捨て人にな りなさい、修道院にでも入りなさい、という意味ではないのです。  そうではなく、私たちの人生、また生活の全体が、何によって本当に生かされてい るのか、ということなのです。私たちを生かす“まことの糧”は何かということなの です。主イエスは、教会生活とこの世の生活を分けてお考えにはなりません。その二 つは分離するものではなく、一体とならねばなりません。教会生活なくしてこの世の 生活は本物にはならないのです。教会という土台を持たないこの世の生活は「朽ちる 食物のために働く」だけの生活になってしまうのです。逆に、教会という土台を持つ ならば、この世の生活は「永遠の命に至る朽ちない食物のために働く」生活になるの です。「教会か、この世か」という二者択一ではなく、教会という中心を持ってのみ、 この世の生活は生きた幸いの生活となるのです。「朽ちる食物」ではなく「朽ちない食 物」に養われる人生になるのです。  そこで、私たちの聖書には「永遠の命に至る朽ちない食物」と訳されていますが、 もとのギリシヤ語を直訳しますと、この二つは別個の言葉ではなく「永遠の生命のた めの朽ちないパン」というひとつの言葉なのです。だから「朽ちない」というのは、 主が与えて下さる“生命のパン”を食べる私たちに永遠の生命(神の国の民の祝福と 幸い)を与えるものです。パンそのものが目的語ではなくて、キリストが教会を通し て私たちに賜わる“生命のパン”にあずかる私たちが目的語なのです。それを戴いて 生きる私たちは、キリストに結ばれて“朽ちない生命”を戴いているのです。私たち が消えてパンが残るのではなく、パンが消えていって私たちが神の国へと“朽ちない 生命”に生きる者となるのです。それが、主が与えて下さる「朽ちない食物」なので す。私たちが目的語なのです。  そのことは、ただちに、キリストの御生涯を私たちに思い起こさせます。キリスト は「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるため、すなわち、全ての人 の罪の贖いとして、生命をささげるためである」と言われました。だから、群集が主 を捕らえて王にしようとしたとき、主はお一人で山に退かれたのです。主の御生涯を 見る私たちは、そこに神の、全世界に対する測り知れぬ愛を見るのです。主の御言葉 を聴く者は、神の限りない救いの御心を知るのです。主の御心を知る者は、そこに自 分に対する恵みの招きを見いだすのです。  だから教会は「キリストの御身体」なのです。キリストを信じる私たちはキリスト の御身体に堅く結ばれ、「永遠の命に至る朽ちない食物のために働く」喜びの人生を共 に生きる者とされているのです。主イエスは、四十日四十夜の荒野の誘惑のおり「も しあなたが神の子なら、これらの石をパンに変えてみせよ」という悪魔の誘惑に対し て、毅然として「人はパンのみで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言 葉によって生きるものである」と言われました。肉体に必要な糧はもちろん大切です が、それだけで人は生きた者とはなりません。人が生きるためには「朽ちる食物」で はなく「永遠の生命にまで至る朽ちない食物」が必要なのです。主はそれを、教会を 通して全ての人々に豊かに与えようとしておられるのです。  「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」。 これは全ての人に対する、主イエスの愛と祝福の招きです。大切なことは、この「(何々 の)ために働く」という字は「キリストを信じる」ということなのです(それは28 節以下にもっきり示されています)。私たちが救われるのは“行いによる義”によって ではなく、イエス・キリストを信ずる“信仰による義”によってです。そして「信仰 による義」とは、キリストご自身の義です。だから「信仰による義」とは、キリスト ご自身の義(正しさ)に、私たちが信仰により、教会を通してあずかる者になること です。十字架の主なるキリストを、わが主、救い主と告白することです。そこには少 しも“行いによる義”の入りこむ余地はないのです。  今朝の御言葉により、私たちが勤しみ務めることは、「永遠の命に至る朽ちない食物 のゆえに、キリストを信じる者になること」です。私たちには、すでに永遠の生命の 糧が(キリストご自身が)豊かに与えられています。キリストは私たちのために十字 架に死なれ、甦られたのです。私たちの罪を担い取って下さったのです。私たちはこ の贖い主なるキリストを信じ、キリストにあずかりつつ生きるのです。そのとき私た ちのあるがままの日々の歩みそのものが「朽ちる食物のため」ではなく「永遠の命に 至る朽ちない食物のために働く」ものになるのです。キリストの義を纏うて生きる者 とされるのです。私たちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きること を信じるのです。それは、古き罪と死の支配に決別し、キリストの復活の生命に甦ら せられた者の喜びの生活です。神の御言葉のみが、私たちを永遠の神の国にまで永続 させる唯一の「朽ちない食物」なのです。それを私たちはいま、この教会において豊 かに賜わっているのです。いま共にその「朽ちない食物」にあずかる者とされている のです。 今日から始まる新しい一週間の旅路を、キリストを信じ、心を高く上げて、ともに 良き信仰の歩みを続けて参りたいのです。今ここで私たちが共にあずかっている「朽 ちない食物」は、私たちが御国に召される時にも、死を超えてまで私たちを支え養い、 祝福の生命を与えます。私たちは主の教会において、この世の信仰の旅路の中で、や がて永遠の御国において喜び祝う「生命の糧」にあずかる者とされているのです。