説    教   詩篇89篇8〜9節  ヨハネ福音書6章15〜21節

「嵐の中の平安」

2008・06・08(説教08231222)  それは、弟子たちだけで、ガリラヤ湖を舟で渡ろうとした時のことでした。まず、 今朝の御言葉の15節を見ますと「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしよう としていると知って、ただひとり、また山に退かれた」と記されています。主イエス がなさった数々の不思議なわざの噂を聞いた人々は、今度は主イエスを「とらえて(で も)王に(祭り上げようと)して」いたのです。その企てを知られた主は、こんどは 本当に、お一人で「山に退かれた」のでした。  主イエスが世に来られた目的は、全ての人々の罪の贖いとして十字架におかかりに なり、罪の贖いによる救いを成し遂げられるためであって、この世の王になることで はありません。しかし、それを全く理解しない群集が、主イエスを王に仕立てようと していたのです。主はこうした場面で、しばしば「山に退いて」おられます。それは なによりも、祈りのためでありました。  ここで、ぜひとも知らねばならないことは、ガリラヤ湖をめぐる山々のどこからで も、湖の様子が非常によく見わたせるということです。私は16年ほど前にガリラヤ 湖を訪ね、主イエスがパンを裂かれたと言われる丘の上にも登りました。空気が乾燥 しているせいもあって、そこからは、湖の向こう岸のようすまではっきりと見えまし た。ですから、弟子たちだけで舟に乗ってガリラヤ湖を渡っていた時も、主イエスは 彼らを見ておられたのです。しかも、深い祈りのうちに、彼らを見守っておられたの です。 このことは、とても大切なことです。弟子たちからは、主イエスのお姿は見えませ ん。私たちの人生にも、それと同じことがあります。「主はこんなに苦しむ私を見捨て ておられるのだろうか?」という思いを抱くことがあるのです。しかし主イエスは、 弟子たちを(私たちを)いつもまなざしにとめておられる。まさに「見守る」という 言葉が、これほどふさわしい場面はないでしょう。私たちが主を見失って慄いている 時にも、主は変わることなく私たちを見守っておられるのです。  ガリラヤ湖は短いところでも対岸まで約12キロあります。しかも突然、突風が吹 いて2メートルもの大波が立つことがあるため、熟練した漁師からも恐れられていま した。弟子たちの多くはもと漁師でした。特にペテロは熟練した漁師であり、このガ リラヤ湖の恐ろしさを知り尽くしていましたが、彼らがこのときに遭遇した突風は、 今まで経験したことのないような激しいものでした。  今朝の御言葉の16節を見ますと「夕方になったとき、弟子たちは海べに下り、舟 に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、 イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった」と記されています。 この「すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなか った」という言葉のうちに、この時の弟子たちの、言い知れぬ不安を読み取ることが できます。嵐の夜の海ほど恐ろしいものはありません。弟子たちは自分たちが危機的 な状況にあることを知り、そこに主イエスが共におられない事実に、焦りと苛立ちを 顕わにしたのです。それが「主イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった」 という言葉に示された、彼らの心の状態です。しかも、次第に強まる波風の中を、す でに舟は19節にあるように「四、五十丁(も)こぎだし」ていたのです。進むこと も戻ることもできない、進退きわまる難局に直面していたのです。  私たちの人生にも、同じ場面がありはしないでしょうか。進むことも、引き返すこ ともできない。周囲は荒れ狂う波ばかりという、恐ろしい場面です。しかも私たちが いちばん主イエスを必要とする、そうした場面において、主イエスは私たちと共にお られないように私たちは感じるのです。この時の弟子たちの焦りと苛立ちは、私たち にもよく分かるのです。「主よ、あなたはどうして、苦しみ悩む私を、お見捨てになる のですか?」「この肝心な時にいて下さらないで、いったい、いついて下さるのです か?」と、恨みごとを言いたくなる場面です。遠藤周作の作品に「沈黙」という小説 がありますが、まさに私たちが苦難を受けているあいだ、沈黙を続けておられる神に、 私たちの恐れはいっそう増幅され、苛立ちはさらに募るのです。  しかし、そのような場面でこそ、私たちは主からはっきりと約束を戴いています。 それは同じヨハネ伝14章18節の御言葉です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児と はしない」。そして14章1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、 またわたしを信じなさい」と主は言われたのです。同じように、ヨハネ伝16章7節 には「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行か なければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう」とも語っておられます。 私たちは、こうした主の御言葉を、正しく聴いてきたのでしょうか。  私たちは、私たちの目に主イエスが見えないことは、主イエスの目にも私たちが見 えないことだと、愚かにも決めつけるのです。私たちが主の御姿を求めているとき、 主は私たちの姿を求めておられないのだと決めつけるのです。そのようにして私たち は、自分を取り囲んでいる人生の波風だけに心奪われてしまいます。恐れのあまり漕 ぎ悩むのです。人生航路を見失ってしまうのです。このときの弟子たちが、まさにそ うでした。弟子たちだけではなく、彼らが乗っているこの小さな舟は、私たちの人生 そのものの象徴なのです。それはいま、激しい波風に遭い、沈没してしまいそうなの です。  私たちの力は、突如として襲いかかる人生の波風の前に余りにも無力です。私たち の経験や知恵や力はもちろん、信仰さえも、せいぜい岸から「四、五十丁」のところ で力尽きてしまうのです。帆を上げても、降ろしても、漕いでも、漕がなくても、事 態は何も変らないと、諦観する思いになります。しかも容赦なく、滅びの時だけは近 づいています。絶望さえ、そこでは無力です。何一つとして助けになるものはなく、 私たちはみずからの無力と空しさを、いやというほど味わわされるのです。  どうか、そのような所でこそ、私たちは主イエスの御言葉に堅く立ち続けましょう。 「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」と言われ、さらに「わたしが去って 行かなければ、あなたがたのところに助け主はこない」と言われた主の御言葉を、い まこそ真剣に、正しく聴く者になりたいのです。たとえ私たちの目に主イエスの御姿 が見えなくても、主イエスの御目には、私たちの姿はいつも見据えられ「見守られて」 いるのです。主はまさに、深い祈りの中で、弟子たちの(私たちの)人生航路の全体 を見守っておられます。私たちが主を忘れているときも、主は私たちを決してお忘れ になりません。人生の荒波のただ中でこそ、主は私たちと共にいて下さるのです。私 たちの全存在を、罪の深淵から守り、決して沈むことのないようにして下さるのです。  マタイ伝14章の同じ記事を見ますと、弟子たちは(私たちは)自分の恐れや苛立 ちに心塞がれ、嵐の海の上を歩いて近づいて来て下さる主イエスのお姿さえ、それが 「幽霊」だと「恐れた」と記されています。この「幽霊」とは“ファンタスマ”すな わち「幻想」ということです。私たちこそ主イエスを「幻想」としてしまうのです。 私たちの混乱した心には、真の助けさえ「幻想」のように映るのです。自分で幻想に 捕らわれ、尊い救いの機会を放棄してしまうのです。しかし主イエスは、私たちを人 生の「幻想」に捕らわれたまま放置なさいません。あるアメリカの神学者が「キリス ト教の信仰は、人間を虜にする全ての幻想から私たちを解き放ち、真のリアリティ(現 実)へと立ち向かわせるものである」と語っています。  まさに私たちに、そのリアリティ、人生の現実に生きる力と平安とを与えて下さる かたこそ主イエスなのです。主イエスは嵐の中でこそ、私たちに御声をかけて下さい ます。20節です。「すると、イエスは彼らに言われた、『わたしだ、恐れることはない』」。 この「わたしだ、おそれることはない」というのは、文語の聖書では「我なり、懼る な」です。少し難しい漢字を書きますが、この文語の「懼れる」とは「かしこまる」 という字です。フリーズする、身動きできなくなる、という意味です。私たちは人生 の中で「幻想」に捕われ、真の神を見失うとき、そこで身動きできなくなってしまう のです。まことの神から離れた人生は、人生の意味と目的を見失った、身動きの取れ ない人生です。人間としての喜びと幸いが失われてゆくのです。  このときの弟子たちが、まさにそうでした。彼らは波風に対して必死で立ち向かっ てはいます。人間としての最善は尽くしています。しかし、そこで仰ぐべきおかた、 信ずるべき主イエスの御姿を見失っているがゆえに、その人生航路は空しく、身動き の取れないものになってしまっているのです。まさに、そのような私たちの現実の中 でこそ、主イエスは御声をかけ、私たちを「幻想」から解き放って下さいます。硬直 し、絶望し、止まった私たちの人生を、まことの喜びと幸いへと呼び覚まして下さい ます。 主イエスは言われました、同じヨハネ伝16章33節。「あなたがたは、この世では なやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 なによりも、主はここで「わたしだ、恐れることはない」と明確に告げて下さるの です。このように明確に「わたしだ」と、人生の荒波の中で告げて下さるおかたが、 主イエスのほかにあるでしょうか。私たちが漕ぎ悩むとき、「こうしなさい」とか「こ うしたら良い」とか「こうすべきだ」と語る人はいるかもしれない。しかし「わたし である、恐れることはない」と、明確にご自分をさして語って下さるかたは、主イエ スだけなのです。どんな思想やイデオロギーや政治や哲学や人生論も、世界観や人間 論は教えてくれても、自分が「救い主」だとは告げてくれません。ただ主イエスのみ が「わたしだ、恐れることはない」と告げて下さるのです。そのような唯一のおかた として、私たちの人生のただ中に、主は御声をかけて下さるのです。  「天はみずから助く者を助く」と申します。あるいは「心だにまことの道に適いな ば祈らずとても神や助けん」と申します。いずれも、深刻な苦難の経験をしたことの ない人の言葉だと思います。助けを求めるにも助けなく、心がどんなに道に適おうと も、神の沈黙に直面するのが本当の人生の苦難なのです。しかし、まさにそこでこそ、 主イエス・キリストは、荒海を越えて近づいて来て下さり、私たち一人びとりに「わ たしである。恐れることはない」とはっきり告げて下さいます。私たちを宇宙の孤児 とはなさらず、助け主なる聖霊を与えて下さいます。吹きつのる嵐の中でこそ、私た ちの全存在を支え、導き、慰め、力強く主の道を歩ませて下さるのです。  21節には「そこで、彼らは(弟子たちは)喜んでイエスを舟に迎えようとした。す ると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地についた」と記されています。なんと慰 めに満ちた御言葉でしょう。私たちがなすべきことは、人生のあらゆる苦難の中で「喜 んでイエスを舟に(つまり、私たちの生活のただ中に)迎え」ることです。そうする なら、私たちは必ず「行こうとしていた地に」着くことができるのです。主が私たち の歩みを導き、支えて下さるのです。それは、主は私たちの罪を担って、十字架にお かかりになった「救い主」だからです。罪と死に勝利された唯一のキリストが、私た ちの変わらぬ主であられるのです。