説    教   詩篇145篇13〜16節  ヨハネ福音書6章5〜14節

「主が与えたもう御糧」

2008・06・01(説教08221221)  ガリラヤ湖のほとり、カペナウムの近くの山の上での出来事です。主イエスは山の 上で弟子たちと共に「座につかれ」ました。これは世界と歴史の中に建てられた主の 教会をあらわしています。そこで主イエスは、全ての人々に、まことの生命を与える 霊の糧をお与えになるのです。 今朝の御言葉の10節を見ますと、そこには男だけで「五千人ほど」の人々がいま した。女性や子供たちを合わせれば、群衆の数は一万五千人を優に超えていたことで しょう。誰が考えても、人里はなれた山の上で、そんなに大勢の群集に食物を与える ことなどとうてい無理でした。そこには僅かに「大麦のパン五つと、さかな二ひきと を持っている」一人の子供がいるだけでした。だからアンデレは「こんなに大ぜいの 人では、それが何になりましょう」と申したのです。  しかし、主イエスは、その名もなき小さな子供の献げものを、御業のために用いて 下さいます。主はそのパンと魚とを受けて、祝福され、それを手ずからお裂きになり、 弟子たちに命じて、群衆に配らせたまいました。そこに、驚くべきことが起こりまし た。それらの群集は、食べて満腹したばかりではなく、余ったパンの残りを集めると 「十二のかごにいっぱいになった」と、今朝の6章13節に記されているのです。  ここで大切なことは、ひとつには、この名もなき子供の献げものです。私たちはい つも、神の力強い御手の働きを忘れて、自分の力だけに頼ってしまいます。いま自分 は「何も持っていない」という現実のみに心が捕らわれ、主の求めを聴いても、それ に応えようとはしないのです。しかし主は、いつも私たちの限界のところに立ってお られます。主は、この世の常識や架空な計算よりも、いま現実に私たちにあるものを お求めになります。子供が持っている「五つのパンと二匹の魚」、それを喜んでお受け になり、全ての人々の飢え渇く魂を満たして下さいます。  主は、私たちの理想論や、架空の計算や、諦めや煩瑣な議論ではなく、いま私たち が持っているものに目をお留めになります。そこで、私たちは言うかもしれません「主 よ、わたしには力がありません」「健康な身体がありません」「お金がありません」「理 解してくれる家族がありません」「経験がありません」「人数が少ないのです」「わた しは忙しいのです」。私たちの言い訳は無数にあります。しかし主イエスは、私たちが “いま持っているもの”だけをお求めになります。それ以外のものをお求めにならな いのです。  だから、私たちに求められていることは、「ない、ない」と不平を喞つことではなく、 たとえ今あるものが「五つの大麦のパンと、二匹の魚」にすぎないとしても、それを 喜んで主の御業のために献げ、主に用いて戴くことです。「こんな僅かなものが、いっ たい何になるでしょうか」と私たちは呟きます。その呟きと疑いをも主に委ねて、大 胆に主の御手に献げるとき、主がそれを限りなく豊かに用いて下さるのです。それを 大きくして下さるのです。多くの人々の救いの御業のために用いて下さるのです。そ れが、私たちへの確かな約束です。  私たちの心は、いつも“無いもの”のほうにばかり向いていて“有るもの”のほう には目がゆかないのです。しかしそれは結局、共にいます主イエスを信頼していない ことです。自分にないもの、いま持っていないものばかりに心が捕らわれ、持ってい るもの、いま有るものを用いて下さる、主イエスを本当に見つめていないことがいか に多いことでありましょうか。 あの小さな子供は違いました。自分は本当に貧しい、僅かなものしか持っていない。 しかし、その貧しいもの、僅かなものを、そのあるがままに、主に差し出したのです。 主が豊かに用いて下さることを信じたのです。私たちの人生も同じです。そのあるが ままに、主を信じ、主の求めに答え、主に委ねるとき、主がそこに働いて下さいます。 主が祝福の御業を現わして下さるのです。  群集は主の御手から失われない食物(御言葉)を受けて満腹し、余ったパンの残り を集めたら「十二のかごにいっぱいになった」のです。その「十二のかご」とは、主 イエスの十二弟子の数です。つまり、主イエスの弟子である私たちは、主イエスから 恵みを戴いて満腹するだけではなく、その恵みを、他の人々のもとにも運ぶようにと、 新しく召し出されているのです。私たちにも、主イエスは一つずつ“パンのかご”を 手渡しておられるのです。「あなたも、この御言葉の(祝福の)かごを持って、人々の もとに出て行きなさい」と命じておられるのです。  私たちは、この出来事が“過越の祭”の時に起こったことに心を向けたいのです。 この食事は文字どおり、主が十字架において、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さっ た出来事をあらわす「過越の食卓」でした。そこでは私たちは、キリスト御自身にあ ずかる者とされているのです。それこそ主がお建てになった教会において起る出来事 です。主は十字架と復活において、私たちを「なくてはならぬ唯一の糧」にあずから せて下さるのです。 だからこれは、ただの食事風景ではありません。空腹を訴える群集のために主が僅 かな食物を増やされたという不思議物語でもありません。そうではなく、ここでは私 たち人間の根源的な飢え渇きが見据えられています。御言葉と御霊以外の他の何物に よっても満たされえない、私たち人間の根源的な飢渇き、すなわち、神に対する罪の 問題が見据えられているのです。  まさしく、その最重要問題から、主イエスは私たちをご覧になります。それが解決 されずして、人間は決して人間たりえないからです。ですから今朝と同じ場面である マルコ伝6章34節では「(主は)大ぜいの群集をごらんになり、飼う者のない羊のよ うなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた」とあります。主イエ スは御言葉(御自身の十字架による罪の贖いの御業)をもって、私たちに「福音」を 豊かに与えて下さいます。「いろいろと教えはじめられた」とはそういうことです。た だ主イエスのみが「飼う者のない羊のような」私たちの根源的な飢え渇きを癒し、満 たし、生命を与えて下さるのです。  主イエスは最初、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」と弟子 たちに問われました。そう言われたのは6節に「ピリポをためそうとして言われたの であって、ご自分ではしようとすることをよくご承知であった」とあります。主イエ スが求めておられるのは、いつも私たちの信仰による応答です。「自分にはなにも無い」 という思いさえ、主イエスの御手に委ねて、主の求めに大胆に従うことです。だから 「(主が私たちを)ためされた」というのは「テストをされた」という意味ではなく「た だ信仰を問われた」ということなのです。 ピリポはその問いに正しく答えたでしょうか。むしろ彼は群衆の数に恐れをなし、 「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」と 答えたのでした。一デナリは当時の労働者一日分の賃金です。だから「二百デナリ」 というのは大変な金額です。たとえそれだけのパンがあっても、この大群衆の前には 焼石に水でしょうとピリポは答えたのです。  そこで、私たちこそ、しばしばピリポと同じような答えを、主に対してしているの ではないでしょうか。主は私たちを聖なる教会へと招いて下さいました。私たちはい ま、主の贖いの恵みのもとに生きる僕とされています。それならば、私たちはいつも 主の御糧を戴いているのです。救いの喜びに生きる、御業の仕え人とされているので す。ところが、私たちはいざというところで言い訳をはじめます。お金も、健康も、 時間も、経験も、才能も、自分にはありませんと不平を言うのです。主が招いておら れる恵みより、自分の言い訳を優先させるのです。主を見上げるのではなく、自分の 足もとを見つめるのです。そして自分に絶望をするのです。自分で自分にレッテルを 貼るのです。同じようにして、他人をも審くのです。  キリストに仕えるとは、そのような私たちをきっぱりと主に委ねることです。そし て自分にできること、いま持っているものを、喜んで主にお献げすることです。私た ちにできないことを、主は求めたまいません。主が求めておられるならば、それは必 ず私たちに“できること”なのです。私たちに求められていることは“できない”と 決めつけて自分を審くことではなく、まず招きたもう主を信じ、主に信頼して歩むこ とです。大胆に主の御業に仕えることです。  私たちの教会にも、いろいろな奉仕のわざがあります。すべてが尊い主の御業であ り、そこに優劣などはありません。この礼拝を献げるためにも、聖書朗読、奏楽、礼 拝当番、看板奉仕、車当番、無線当番、礼拝後の清掃など、様々な奉仕のわざが献げ られて、はじめて正しい礼拝が成り立つのです。どれも全て、主が必要とされている 大切なわざです。ある高齢の兄弟姉妹は、病床にありながら、その病床で教会のため に祈りを献げています。その祈りもまた、教会を支えている立派な奉仕のわざです。 否、この礼拝そのものが、私たちが主に献げる奉仕のわざであって、だからこそ礼拝 は英語で、ワーシップ・サーヴィスと呼ばれます。このワーシップとは「価値あるも のをして価値あらしめる」という意味です。「聖なるものをして聖ならしめる」という 意味です。私たちは、礼拝という奉仕のわざを通して、全世界に向かって、最も価値 あるもの、真に人間を生かしめるもの、聖なるお方を証してゆくのです。  そして礼拝からはじまる、新しい生活の全体が、主の求めにお答えする、私たちの 奉仕のわざとされてゆくのです。私たちがなしうることは、小さなことにすぎないか もしれない。しかし、その小さな働きが証するものは、小さなものではないのです。 それは、人間にとって最も価値あるもの、人を真に生かしめる真理をさし示すのです。 すなわち、主イエス・キリストの愛と御業を隣人に伝える働きになるのです。キリス トがどんなに限りない愛をもって、全ての人々を愛し、救わんとして働いておられる かを、私たちの奉仕のわざがさし示し、証しをするのです。それを観た人々が、それ によって神の愛を知り、多くの人々が救いの喜びを共にするのです。これほど感謝す べき、光栄ある働きがあるでしょうか。  改めて、9節の「子供」にまなざしを注ぎましょう。この子は「大麦のパン五つと、 さかな二ひき」しか持っていませんでした。男の子か、女の子か、それもわかりませ ん。ともかく一人の子供が、自分の持ちもの全てを、主の御用のために献げたのです。 ここに「子供」と訳された“パイダリオン”というギリシヤ語は、この子が貧しい家 庭の子であったことを示しています。事実「大麦のパン」は貧しい人たちの食物でし た。しかし、この貧しい持ちものをあるがままに、主イエスの御業のために喜んで献 げたのです。自分の持つ全てを主に委ねたのです。この貧しい献げものをさえ、主が お用い下さることを信じたのです。  主イエスは、この子が献げたパンと魚を、弟子たちに命じて群衆に配らせたまいま した。私たちの教会の聖餐の原型です。聖餐において、聖別されたパンと杯を長老た ちが会衆に配るのは、今朝のこの御言葉に基いています。そして11節にあるように 「(主は)パンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え(られた)」ので した。それは、聖餐制定語の第一コリント書11章23節以下とともに、今日、私たち の教会の聖餐(式)にそのまま伝えられているのです。  感謝され、祝福されたパンと魚にあずかった人々は、単なる肉体の糧ではなく、主 イエスがテーブルマスターであられる「過越の食卓」(罪の赦しと永遠の生命)にあず かったのです。主イエスが賜わる霊の糧(主イエス御自身)にあずかったのです。主 は過越の食卓において、弟子たちにパンを裂き、ぶどう酒を与えられて「取って食べ よ、これはあなたがたのために裂かれるわたしの身体」と言われ「この杯より飲め、 これはあなたがたのために流されるわたしの血」と言われました。永遠者なる神が、 有限なものとなられ、聖なるおかたが、十字架に死んで下さり、私たちの罪のまこと の贖いとなって下さった。ここに、極みまでの愛が現れているのです。  そして、まさしくこの主イエスの賜わる生命の糧に、私たち一人びとりが、この教 会を通して、聖なる御霊によるキリスト御自身の現臨のもと、豊かにあずかる者とさ れているのです。第一コリント書10章16節。「わたしたちが祝福する祝福の杯、そ れはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリス トのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くい ても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである」。  私たちはこれから、主がお定めになった聖餐にあずかります。私たちのために全て を献げて下さった主の測り知れない愛と恵みを覚えつつ、私たちはいっそう心を高く 上げて、主にお従いする生涯を歩む者とされて参りたい。私たちはみな一つなるキリ ストにあずかっているのです。だから「わたしたちは一つのからだ」なのです。とも に主の教会に仕える喜びを与えられています。ともに主にのみ栄光を帰する僕とされ ています。私たちは主が与えたもう御糧に養われ、一つなるキリストの枝とされて、 神の限りない救いの御業にあずかる者とならせて戴いているのです。そこに、私たち の変らぬ幸いがあり、真の喜びがあり、平安があるのです。