説    教    詩篇24篇1〜10節  ヨハネ福音書6章1〜4節

「栄光の王なるキリスト」

2008・05・25(説教08211220)  今朝、与えられた御言葉、ヨハネ伝6章1節に「そののち、イエスはガリラヤの海、 すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた」とあります。主イエスの時代、ガリラ ヤ湖は当時のローマ皇帝の名を冠して「テベリヤ湖」と呼ばれていました。ヘブル語 では湖が琴の形に似ているので「琴の海」(ヨム・キネレート)と言います。日本語に 訳せばさしずめ「琵琶湖」でしょうか。  このガリラヤ湖の周辺は、乾燥地帯であるイスラエルには珍しく、緑したたる美し い土地であり、なだらかな山並みと長閑な田園地帯が拡がっています。湖の南に今日 でもティベリアという町がありますが、そこから見たガリラヤ湖の景色は「地球上で 最も美しい風景の一つ」に数えられています。主イエスもまたおそらく、そのティベ リアから舟に乗られて「湖の向こう岸へと渡られた」のでありましょう。「向こう岸」 には弟子のペテロやヨハネの故郷でもあったカペナウムという村があり、主イエスが 舟を降りられたのは、たぶんその付近であったと思われます。  ところが、2節を見ますと「大ぜいの群集がイエスについてきた」というのです。 主が舟から降りるのを待ちまえるように、おびただしい群集が主イエスを取り囲んだ のでした。それは、彼らは主イエスが「病人たちになさっていたしるしを見たから」 だと2節には記されています。これらの人々はみな、主イエスがガリラヤのご出身で あることを知っていました。いわば同郷人である主イエスが、エルサレムで凄い「し るし」を行った。パリサイ人や律法学者たちの度肝を抜いた。日ごろ「異邦人のガリ ラヤ」などと呼ばれ、エルサレムに対して憤懣やるかたなかったガリラヤの人々にし てみれば「してやったり」という思いがあったのです。彼らにとって主イエスはまさ に「時の人」であり「郷土の英雄」でした。それで、ガリラヤ周辺の村々こぞって主 イエスを歓迎したのです。湖のほとりの小さな村カペナウムは、時ならぬ歓迎ムード に沸き立ったのです。  もっとも、この大歓迎にいちばん驚いたのは、主イエスの弟子たちであったかもし れません。家を棄て、職を棄て、故郷を棄てて、主イエスに従って来た弟子たちです。 それはいわば“賭け”のようなものでした。彼らには「錦着ずしてなど故郷に帰るべ き」という悲愴な思いがあり、「功成り名を挙げずば再び故郷に帰らず」という切迫感 がありました。それが、どうでしょうか。故郷カペナウムに帰っていきなりのこの大 歓迎に、弟子たちは感激したのです。「ああ、イエス様の弟子になってよかった」と心 から思ったのです。「自分たちの先生は本当に偉いかたなんだ」と思ったのです。輝か しい未来が約束されたように感じたのです。主イエスの弟子であることにはじめて誇 りを抱いたのです。  このような時、人はどのような行動を取るでしょうか。自分の人生に巡ってきた千 歳一遇のこの機会を何とかして活かし、更に大きく発展させたいと考えるのではない でしょうか。実際、弟子たちは、恐ろしいほどのこの人気を追風に、いまこそ世界に 旗揚げすべきだと思ったことでした。ましてや、ローマの支配下にあったユダヤの人々 にしてみれば、この主イエスこそ「われわれの王になるべきお方である」との想いが あったのです。混乱の時代に人々が求めるのは、強力なリーターシップを持つ指導者 です。「主よ、今こそ旗揚げすべき時ではありませんか」。弟子たちには、みなぎる熱 き胸の想いがあったのです。  ところが、どうでしょうか。肝心の主イエスはお動きになりません。それどころか、 今朝の御言葉の続く3節には「イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につ かれた」と記されているのです。「山」とは町とは正反対の、人のいないところです。 今朝の御言葉は淡々と「弟子たちと一緒に座につかれた」と記していますが、そこに 至るまでの弟子たちの心中は穏やかではなかったでしょう。慌てて主イエスの袖を引 き「主よ、違います。どこに行かれるのですか」と叫びたい思いではなかったでしょ うか。「どうして山などに行かれるのですか。せっかく、こんなに大勢の群集が歓迎し ているのに、なぜここにとどまって、王になって下さらないのですか」。そういう想い で一杯であったに違いないのです。  いわば、弟子たちはここで主イエスにつまずき、そこから、主イエスと共に「(山で) 座につく」者たちとなったのでした。だから、これは大変なことです。私たちは今朝 の御言葉の3節に、弟子たちの「つまずき」と、その「つまずき」を乗り越えさせた もの、その二つを読み取ることができます。それでは、弟子たちは主イエスの何につ まずき、そして、何によって真の弟子とされていったのでしょうか。  まず第一に、十二人の弟子たちが主イエスに従った思いは、信仰であったことは明 らかです。そうでなければ、どうして家や職業や故郷を棄ててまで、主イエスに従う ことができたでしょう。しかし弟子たちの信仰は、いつしかこの世の様々な価値観に よって揺らぎ、曇らされ、自己中心の想いこみに陥っていました。それは私たちの姿 でもあります。私たちキリスト者にとって、信仰の歩みとは、キリストに従うことの みであるはずです。信仰生活とは、キリストに従い続ける人生です。パウロが「十字 架のキリストのみを宣べ伝えんと心を定めたり」と語ったように、そこには御言葉に よる成長の喜びがあります。日に日に新しく主イエスの御跡に従う「新しさ」がある はずです。  讃美歌の294番に「みめぐみゆたけき/主の手にひかれて/この世の旅路を/あゆ むぞうれしき/たえなるみめぐみ/日に日にうけつつ/みあとをゆくこそ/こよなき さちなれ」と歌われています。私たちの信仰の歩みはまさにそれです。“主の御手に導 かれつつこの世の旅路を歩む”ものです。ところが、私たちはしばしば思い違いをす るのです。自分が主の手を引くようなことをするのです。自分のほうが主イエスより 正しく物事が見えていると錯覚するのです。そういう傲慢な思いが、私たちの信仰を 支配することがあるのです。  とんでもない、自分はかつて一度もそんな傲慢な思いを抱いたことはないと、私た ちは言うかもしれません。弟子たちも同じでした。弟子たちも、自分たちが傲慢にも 主イエスに指図しているなどと夢にも思わなかったのです。彼らが思っていたことは、 ただ「この群集の願いを無視してはいけませんよ」ということでした。「これを無視し たら先生に未来はありませんよ」ということでした。時代の要求、社会の要求、人間 の要求、これを差し置いて、キリストたる道はありえない。それが弟子たちの信仰に なっていたのです。だからこそ、群集を尻目に山に登ろうとする主イエスのお姿に困 惑したのです。自分たちの未来の設計図が壊れてしまうと感じたのです。だから主イ エスの手を引いて止めようとしたのです。  私たちはいま本当に、群集を尻目に山に登られる主イエスに喜んで従う僕となって いるでしょうか。自分が主イエスの手を引くのではなく、主イエスの御手に導かれて ゆく喜びと幸いに生きているでしょうか。そのことを今朝の御言葉によって深く問わ れているのです。主イエスが御自分の身にやがて起こる十字架の出来事を弟子たちに 予告された時ときも、ペテロは主イエスの袖を引いて「主よ、とんでもないことです。 そのようなことがあってはなりません」と主イエスを諌めたのでした。ここで明らか なことは、弟子たちの最大のつまずきは「十字架」であったということです。主イエ スはこの世の王となるべきおかたではないか。偉大な指導者ではないか。それなのに、 十字架にかかって死なれるとはどういうことか。「そんなことは、絶対にあってはなら ない」とペテロは思ったのです。それで、主イエスの袖を引いたのです。主イエスを 叱ったのです。  それに対して、主は何とお答えになったでしょうか。「サタンよ、引きさがれ」と言 われたのです。「わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のこと を思っている」と仰せになったのです。まことに厳しい御言葉です。しかしこの厳し さなくして、信仰に生きえない私たちです。ペテロは何を叱られたのか、それさえも 分からなかったでしょう。同じように私たちもまた、自分でも知らぬうちに主イエス の手を引くような傲慢の罪を犯すのです。それが「信仰」だと思いこんでしまうので す。それならば私たちこそ、目をしかと上げて主イエスの御姿を凝視せねばなりませ ん。ひとり山に登られる主イエスにお従いせねばなりません。いまは分からなくても 良い、戸惑いがあってもよい、恐れがあってもよいのです。私たちに求められている ことは、いま、主イエスにお従いすることです。主イエスの御手に引かれて行くこと です。その後のことは、主にお任せすればよいのです。  今朝の御言葉である6章3節には「イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで 座につかれた」と記されています。続く4節には「時に、ユダヤ人の祭である過越が 間近になっていた」とも告げられています。このあと、もう二回か三回あとの過越に は、主イエスはエルサレムで十字架にかかっておられるのです。ですから「過越」を 「間近」に「山に登って、…座につかれた」というのは、主イエスみずから、御自分 がこの世の支配者(王)ではなく、キリスト(つまり全人類の罪の贖い主として世に 来られた神の子)であることをはっきりと示されたことです。主は「仕えられるため にではなく、仕えるため」に世に来られました。その「仕えるため」とは「すべての 人の罪の贖いとなるため」ということです。  この世界のあらゆる所で、あらゆる仕方で、私たち人間の罪の結果が猛威をふるっ ています。人類の歴史はある一面において、罪の働いた歴史そのものです。そして、 それは本当には、ただ人間どうしの問題に終らないのです。罪の問題は本質的には神 に対する問題なのです。まことの神との関係修復なくして、人間の問題の根本的解決 はないのです。すると、それは人間の手に余る問題です。もし罪の問題が神に対する ものならば、それは私たちが支配できるものではなく、かえって罪が私たちを支配す るのです。それが解決できると考えることこそ、傲慢なことなのです。主イエスの手 を引くことなのです。私たちはそういうことをするのです。御言葉に聴くよりも、自 分の判断を優先させるのです。キリストの御跡に従うよりも、自分を人生の主として しまうのです。  たとえ、この全世界を完全に支配する王が現れたとしても、たった一人の人間の罪 の問題さえ、解決することはできません。箴言にもあるように、城を攻め取ることは できても、罪を克服できる人間は一人もいないのです。それが私たちの偽らざる姿で す。それならば私たち人間にとってまことの「王」とは、いかなるおかたなのでしょ うか。まことの「指導者」とは誰なのでしょうか。それは、私たちを罪の支配から解 放し、真の自由と平和へと導いて下さる主イエス・キリストのみです。私たちを創造 主なる神との真の関係へと招いて下さるおかたです。それは、まことの神の独り子、 唯一の主イエス・キリストのみがなしうるのです。  主イエス・キリストのみが「まことの人にしてまことの神」であられるお方です。 このかたのみが、私たちを極みまでも愛し、私たちの罪と悲惨のただ中に降りて来て 下さったのです。そこで私たちの罪を担われ、十字架において死んで下さったのです。 それゆえにこそ、主イエス・キリストは、全人類のまことの「王」と称せられるので す。それが、弟子たちにもわかったのです。弟子たちは、十字架の主キリストを信じ たのです。だから、主と共に「座する」(主に仕える)者となりました。 私たちの教会は歴史の中で「キリストの三職」ということを重んじてきました。十 字架のキリストは「預言者、祭司、王」の三つの救いの御力をもって、私たちを救っ て下さるのです。すなわちキリストは、まことの神の聖なる御心を正しく世に告げた もうお方であるゆえに「まことの預言者」と呼ばれ、私たちの罪を贖い、神との和解 を与えたもうお方であるゆえに「まことの祭司」と呼ばれ、そして、私たちを永遠に 恵みをもって支配し、保ち、導いて下さるゆえに「まことの王」と呼ばれるのです。  この「まことの王」は、仕えられるためにではなく、仕えるために、すなわち全て の人の罪の贖いとして御自分の生命を献げるために世に来られました。この「まこと の王」なるキリストの玉座は、王宮の中などにではなく、ガリラヤ湖畔の緑の丘の上 に、すなわち私たちのただ中に確立されるのです。そこで主は全ての人々に「まこと の糧」「永遠の生命の糧」を与えて下さいました。罪の赦しと、永遠の生命と、義を与 える「まことの糧」を、主イエスみずから弟子たちにお命じになって、群集に配らせ 給うたのです。私たちの教会の聖餐式の原型です。  そこに建てられたものこそ、主の御身体なる教会です。それならば、その教会にお いて、主ははっきりと言われるのです。「私はあなたを抜きにして、神の国を考えない」 と。「あなたこそ、私が招くその人である」と。ここにおいて、実に全ての人々が、キ リストの祝福のもとへと招かれています。罪の赦しと義を与える「まことの糧」にあ ずかり、人間を真に人間たらしめる祝福にあずかり、世の絶えざる悩みと試練の中に あって、私たちを最後まで支えてやまない、十字架の主・キリストの恵みのもとに、 主は御自身の教会を通して、世にある全ての人々を、等しく招いておられるのです。  それゆえ、私たちは共に詩篇第24篇9節を心にとめます。「門よ、こうべをあげよ。 とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。この栄光の王とはだれか。万軍の 主、これこそ栄光の王である」。主はいま、私たちの生活のただ中に「まことの王」と して来ておられます。私たちは「こうべ」を上げ、信仰をもって、この「栄光の王な るキリスト」をお迎えし、主の御手に引かれてゆく信仰の歩みを、喜びをもって続け て参りたい。その志においてこそ、真に健やかな群れでありたいと思います。