説    教   出エジプト記3章1〜6節  ヨハネ福音書5章39〜40節

「聖書の中心とは何か」

2008・04・27(説教08171216)  ヨハネ伝の第5章には、主イエスがベテスダの池において、38年間も病気であった 人を癒されたことに端を発し、その癒しが安息日に行われたことを非難するパリサイ 人や律法学者たちが、主イエスに論争を挑みかけてきたことが記されています。すな わち、5章16節に「そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言っ て、イエスを責めた」とあるとおりです。これに対して、主イエスは17節に「わた しの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」とお答えになり、父 なる神の救いの御業を、あまねく世に現されることが、ご自分の使命であることを明 らかになさいました。  ところが、これを聞いたパリサイ人や律法学者たちは、18節にあるように「イエス が安息日を破られたばかりでなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものと された」ことを理由に「ますますイエスを殺そうと計るようになった」のです。ここ に、彼らのキリストへの敵意はいっそう露わになり、十字架への道は決定的なものに なったのでした。  しかし主イエスは、このような激しい憎しみと敵意の中にあっても、変わることな く彼らを愛し、彼らの心を、最も大切な一つの問いへと導き、確かな答えを与えて下 さいます。それは「永遠の生命」への問いと答えです。主イエスはご自分の身の危険 をさえ少しも顧みられることなく、むしろ、あらゆる機会をとらえて、ご自分を敵視 する人々をさえ、救いへと(神の祝福の生命へと)導こうとなさるのです。その主イ エスの御業が、今朝、お読みした5章39節と40節の御言葉に示されているのです。  「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わ たしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわた しのもとにこようともしない」。  主イエスの時代のユダヤの人々の最大の関心事は「どのようにすれば永遠の命が得 られるか」という問いにありました。いつの時代にも、その時代の人々の願望や欲求 というものがあります。ユダヤ人にとっては、永遠の生命への探求がそれでした。福 音書の中には、ある青年が主イエスに向かって「よき師よ、永遠の生命を受けるため に、何をしたらよいでしょうか」と問うたことが記されています。また、ある律法学 者は「先生、何をしたら永遠の命が受けられるでしょうか」と尋ねたと記されていま す。これらはみな、当時のユダヤの人々の共通の願いが「永遠の生命を得ること」に あったことを示すものです。  しかし「永遠の生命」とは、生ける真の神との永遠の交わりであり、礼拝の生活で すから、それは「得るもの」ではなく「恵みとして受けるもの」です。当時のユダヤ の人々は「神の国」とは政治的なものであり、ローマ帝国の支配から自由になり、ダ ビデ王朝時代の繁栄を回復することだと考えていました。その実現のためにメシヤ(キ リスト)が来るのだと考えていたのです。こうした、生ける神との関わり(信仰)で はなく、政治的な選民思想に陥った「永遠の生命」の考えは、やがて、自分が「何を したらよいか」という、社会的倫理思想と結びついて、いつしか功績主義へとすり替 わったのは当然でした。「何をしたらよいでしょうか」という問いは、まさにそれを現 しているのです。  主イエスがお教えになり、また、聖書が語っている「神の国」とは、そのような政 治的な国家の実現や功績主義などではありません。「神の国」とは「神の永遠の御支配」 という意味であり、いつ、どの時代、どの国民にもあてはまることです。私たちの身 も魂も、罪と死の支配から贖われ、解放されて、神の恵みの支配のもとに移されるこ とです。それが主イエスの語られた「神の国」であり「永遠の生命」なのです。  今朝の御言葉の39節に、主イエスは「あなたがたは、聖書の中に永遠の命がある と思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」と語 られました。たしかにパリサイ人たちは「永遠の生命」を「得よう」として、非常に 熱心に聖書を「調べて」いました。聖書に取り組む彼らの姿勢は真剣かつ徹底的であ り、あるラビ(ユダヤ教の教師)などは、旧約聖書全てを暗記していたと伝えられる ほどです。しかし、その聖書の読みかたは枝葉末節にこだわる律法主義に陥り、聖書 の中心である福音を読み取るには至りませんでした。いわゆる「論語読みの論語知ら ず」のように、聖書の中心であるキリストを信じることをしなかったのです。  キリストの使徒となる以前の、パリサイ人サウロ(のちの使徒パウロ)も、そのよ うな間違った聖書の読みかたをしていた人でした。パウロはピリピ書の第3章6節に、 かつての自分を回想して「律法の義については落度のない者であった」と述べていま す。それは、聖書の言葉を「神の国」に入るための“努力目標”として読んでいたと いうことです。そして、その目標に到達しえた、ごく一部の「落度のない者」だけが 「神の国」に入れるのだと考えたのです。そうすると、聖書の御言葉はもはや、生命 の恵みへの招きではなく、人間の功績を要求する掟に過ぎなくなります。パリサイ人 サウロにとって、聖書は、人間の努力目標を掲げた律法の書に過ぎなかったのです。  聖書の中心とは、何でしょうか。聖書は、なにをこの世界に(私たち一人びとりに) 語るものなのでしょうか。その、最も大切なことを、主イエスは「この聖書はわたし についてあかしをするものである」と、はっきりと教えておられるのです。聖書は神 の言葉です。私たちに生けるキリストとの出会いを与え、私たちを救う福音そのもの です。新約聖書も旧約聖書もキリストを「あかし」する福音なのです。旧約聖書の中 には「キリスト」という言葉は一箇所も出てきません。しかし旧約聖書の全体が、キ リストのみを「あかし」しているのです。 ごく一例を挙げるなら、アダムとエバの楽園追放において、神が彼らに授けたもう た「皮の着物」は、キリストの義による罪の贖いを現わしています。また、アブラハ ムがその独り子イサクを犠牲として献げたことは、神の独り子イエス・キリストの十 字架による人類の贖いの出来事を現わしています。ヤコブの子ヨセフの麗しい人柄も、 来るべきキリストの御性質を示しています。シナイ山においてモーセに贖罪所の定め が示されたことも、また、荒野で上げられた青銅の蛇も、キリストの十字架をさし示 しているものです。預言書や詩篇などには、さらに多くのキリスト預言が語られてい ます。数え上げるならきりがありません。それに加えて、旧約聖書は、直接にキリス ト預言とは言えない部分においても、キリストが現れなければ、人間はとうてい救わ れないものだということを、直接的・間接的に証言しているのです。  このことを、カール・バルトという神学者は「旧約聖書は待望という形で、新約聖 書は想起という形で、ともに十字架の主イエス・キリストをさし示している」と申し ました。さし示しかたは違うけれども、旧約も新約も、ともにキリストによる救いを 「あかし」している福音なのです。また、パスカルという人は、パンセという本の中 で「イエス・キリスト、彼を二つの聖書は、旧約はその希望として、新約はその模範 として、いずれも中心とみなしている」と語っています。私たちの教会で、特に改革 長老教会の礼拝おいて、かならず旧約と新約が読まれるのは、そういう理由からです。 聖書は旧約と新約いずれも主イエス・キリストを「あかしする」ものなのです。だか らこそ、それは「聖書」(唯一の書、the Bible)と呼ばれるのです。  聖書を、おのれの努力目標(律法)として読んでいたとき、サウロの魂には、喜び も平安も、確信もありませんでした。「自分は救われない、駄目な人間だ」という不安 だけが支配していたのです。そのサウロが、聖書の読みかたを一変させられたのは、 復活のキリストとの出会いによってでした。聖書の中心が十字架と復活のキリストで あることを示されたとき、それまでの聖書の読みかたの誤りが、はっきりと示された のです。聖書がキリストのみを「あかしするもの」だと知ったとき、聖書の御言葉が 人間の努力目標などではなく、確かな信仰と祝福の生命への招きとして、サウロの心 に迫って来たのです。人間は、自分の行いの義によってではなく、ただイエス・キリ ストを信ずる信仰による義によって救われ、「神の国」に生きる者とされるのです。そ こには、何の資格も条件も問われないのです。問われるのはただ「イエスは主なり」 と告白する信仰だけなのです。  万葉集に「山吹の咲きよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく」という歌が あります。奥山のどこかに、ひっそりと生命の泉が湧いていると聞くけれども、自分 はそれが何処にあるのか見当もつかず途方にくれている」という意味の歌です。それ ならば「生命の泉の在り処」を知らない私たちのもとに、生命の泉(神の国)そのも のであるキリストが来て下さったのです。ここに教会を建てて下さったのです。全て の人がキリストにより「生命の泉」へと招かれているのです。だから私たちは「汲み に行かめど道の知らなく」ではないのです。まさにいま「生命の泉」(永遠の生命)そ のものであられるキリストのもとに、招かれているのです。  「論語読みの論語知らず」ならぬ「聖書読みの聖書知らず」に陥っていたパリサイ 人たちは、譬えて言うなら、せっかく生命の泉の在り処を知りながら、その泉に「来 ようとはしなかった」人に似ています。今朝の御言葉の40節に主が「しかも、あな たがは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」と語っておられるとおり です。このことは単に、二千年前のユダヤ人の悲劇であっただけでなく、今日に至る まで、あらゆる時代の人間の根本的な悲劇でもあります。現代の人々も、人間を真に 生かす「生命の泉」を求めています。ある人々は哲学や道徳の中に、またある人々は 文化活動や芸術の中に、またある人々は社会変革や政治活動の中に、この世界のどこ かに「生命の泉」があるにちがいないと、必死に捜し求めているのです。しかし、そ れらのものは「永遠の生命の在り処」を暗示してはいても、決してその生命そのもの を私たちに与えるものではありません。「永遠の生命」は、昔も今も変わりなく、十字 架と復活の主イエス・キリストのもとにのみあるのです。  今日もあんがい、多くの日本人を支配している、聖書の読みかたの典型は、自分で いろいろな書物を通して、あるいは大学の講義や、教養講座などを通して、自分の力 と能力で熱心に聖書を「調べる」(研究する)という姿勢です。人によってはギリシヤ 語やヘブライ語まで学んだりします。それ自体は決して悪いことではありません。し かし聖書は何より“教会の書”なのです。聖書を正しく、キリストを「あかしする」 書として読むためには、教会の礼拝を中心に聖書を読まねばなりません。個人的な教 養としての聖書の読みかたでは、キリストに出会うことはできないのです。まず礼拝 を中心として、たえず主日礼拝の説教を通して、御言葉を正しく聴く生活を確立して こそ、そこにはじめて、個人的にも、社会のただ中で聖書に親しむ生活(御言葉に根 ざす新しい生活)が確立するのです。  だからこそ、私たちは、隣人への伝道の言葉として「聖書を読みなさい」と勧める だけではなく「まず、日曜日の礼拝に一緒に出席しましょう」と勧めるのです。そう でなければ、いくら熱心に聖書を「調べて」も、それは主観的な(個人的な)読みか たに終ってしまうからです。聖書はなにより「神の言葉の説教の書」です。説教は教 会において、全世界に神の御言葉を宣べ伝えることです。だから、教会から離れた聖 書の読みかたは、決して本当の聖書の読みかたにはならないのです。たとえ百万冊の 本に取り組み、研究しようとも、礼拝者として、教会生活者として聖書を読むのでな ければ、その中心であるイエス・キリストに出会うことにはならないのです。  なによりも、教会は十字架と復活の主イエス・キリストの御身体であり、キリスト は神の御言葉そのものであられます。聖書の母体はこのキリストの身体なる教会なの です。だから教会から離れた聖書の正しい読みかたというものはありえないのです。 言い換えるなら、聖書は礼拝において、礼拝のために書かれたものです。だから私た ちの教会は、いつの時代にも「神の言葉の三つの形」ということを重んじて参りまし た。第一に、神の御言葉は「啓示された」神の御言葉であるイエス・キリストによっ て世に与えられ、第二に「書き記された」神の御言葉である聖書によって宣べ伝えら れ、第三に「宣教される」神の御言葉である説教によって現実のものとされるのです。 そのいずれをも、欠いてはならないのです。  そして、この三つの御言葉の形は、主の御身体なる教会においてこそ、私たちを生 かす「生命の泉」となるのです。主イエス・キリストご自身と、聖書と、説教とが相 俟って、はじめてそこに、礼拝者の群れが建てられてゆきます。私たちは、みずから の功績や義によってではなく、ただひたすらにキリストに贖われた者として、キリス トに恵みによって結ばれ、教会に連ならしめられた者として、生活のただ中で神の栄 光を讃美し、主に仕えて生きる者とされているのです。キリストによってただ神を誇 り、讃美することにおいて、人生の旅路を歩む勇気と力と慰めと希望を、たえず主の 御手から受けつつ、主と共に、主に結ばれつつ生きる者とされているのです。自分中 心の信仰生活ではなく、神中心の信仰生活が私たちの信仰の生活です。そこに、私た ちの本当の喜びがあり、平安があり、慰めがあり、また幸いがあるのです。  いまここに、聖書を読みつつ、福音に養われて歩む私たちの生活は、そのような紙 中心の礼拝生活とひとつのものなのです。聖書の中心にいます主イエス・キリストが、 永遠の生命、神との完全な交わりと、死を超えた復活の生命へと、教会によって、全 ての人を招いておられるのです。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って 調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」。このイエス・ キリストこそ、唯一の罪の贖い主、永遠の生命の主であられるのです。