説    教   列王記下7章9〜15節  ヨハネ福音書5章30〜36節 

「キリストの真理」

2008・04・20(説教08161215)  画家のゴッホは、生涯の間、一枚しか絵が売れなかったそうです。しかも買ったの は実の弟で、わずか15フランという値段でした。ゴッホの絵は、そのかなりの数が、 価値を知らない人によって、焼き捨てられているのです。 この、ひとつのことだけを見ても、物事の本当の真価を見定めることが、私たちに はいかに難しいことかと、考えざるをえないのです。それが尊いものであればあるほ ど、価値のある事柄であればあるほど、私たちの評価というものは、いかに当てにな らないものであるかと、思わざるをえません。  それならばまして、神の御子、主イエス・キリストに対して、私たちはなおさらで はないでしょうか。聖書を見ますと、あるとき、パリサイ人、律法学者たちが、主イ エスに対して「あなたは自分自身のことを『あかし』している。だから、あなたの『あ かし』は本物ではない」と語ったことが記されています。  これは、いわば「あなたがキリストであることを証明する、何か確かな証拠がある か」と、詰め寄ったわけです。「証人がいるのか?」と問いただしたのです。もし証人 がいないのなら、あなたの語ることも、行っているわざも、神から出たものとは言え ないではないと、断言したのです。  パリサイ人、律法学者たちにとっては、人間によって支持されないものは、本物で はなかったのです。本物ならば、かならず“世間の支持”があるはずだと考えたので す。よく「内閣支持率」などという言葉を聞きますけれども、いわば主イエスの「支 持率」を、彼らは問うたのです。  主イエスには、世間の支持率というものが、無いではないか。サポートする人が、 いないではないか。いたとしても、それはごく僅かな、名も地位も、権力もない人々 にすぎないではないか。それでは我々は、この人の語ることを、神からの御言葉とし て聞くことはできない。そのように、パリサイ人たちは判断したのです。  ベテスダの池で、主イエスが、38年間も病気で苦しんでいた人を、安息日に癒され たことをめぐって、それが、律法に違反する行為であると、非難する激しい声が、パ リサイ人たちの間におこりました。同じ5章の18節を見ますと「このためにユダヤ 人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を 破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたか らである」と記されています。  パリサイ人たちには、明確な理解がありました。もし、本当に「神の子」であるな ら、安息日に癒しなどするはずはない。律法によって禁じられていることを行うはず はない。もしそれを行ったとすれば、それこそイエスが「神の子」ではない決定的な 証拠である。ましてこの人は、神を「自分の父と呼んで、自分を神と等しいものと」 している。これは、許しがたい神聖冒涜であり、死刑に値することだと、彼らは判断 したのです。  そこで、今朝のヨハネ福音書5章30節の御言葉を見ますと、主イエスは、ご自分 が安息日になさった「癒しの御業」を「さばき」と呼んでおられます。「わたしは、自 分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わた しのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつ かわされたかたの、み旨を求めているからである」と言われるのです。  私たちは「さばき」と聞くと、あまり良いイメージを懐かないでしょう。しかし、 主イエスのなさる「さばき」とは、私たちを捕らえている罪の支配に対する「さばき」 です。私たちを救い、神の子とし、真の自由を与えるための「さばき」です。この「さ ばき」をこそ、実は、全ての人間は、本当に求めているのです。この「さばき」がな ければ、究極的な意味において、人生は空しいのです。それは「私たちの人生の価値 は、どこにあるのか」という問題に通じるのです。ひいては「私たちを生かす真の生 命はなにか」という問題なのです。  逆に申しますなら、主イエスがなさる、正しい「さばき」があればこそ、私たちは、 主の御手にみずからを委ねて、健やかに、恐れることなく、喜んで生きることができ るのです。主イエスの「さばき」(救い)のない所には、罪の支配だけが残ります。た とえどんなに健康に恵まれても、全世界を手中に収めようとも、その人生は、究極的 な意味においては、空しく、無意味な人生です。キェルケゴールの言う「死に至る病」 に冒された人生です。主イエスの「さばき」は、まさにその「死に至る病」に対する 審きです。だから、それは「癒しの御業」なのです。私たちの“救い”そのものなの です。  昔、ガリレオが、従来の天動説を覆す「地動説」を唱えて、宗教裁判にかけられま した。裁判の席上、当時のカトリック教会から破門を宣告されたとき、ガリレオは「し かし、地球は動いている」と語った、有名な故事があります。たとえ、人がどのよう に審こうとも、真理は、動くことはないのです。それから500年を経て、つい最近、 ローマのバチカンが、ガリレオに対する破門宣告を撤回するという声明をしました。 ガリレオの子孫が今でもイタリアにいるそうですが、ローマ教皇みずから、その子孫 の前で声明文を読み上げ、ガリレオの名誉は500年ぶりに回復されたのです。  本当の真理と、偽りの真理、あるいは、本当の価値と、偽りの価値、その両者の違 いは、それが、それ自体において、自立自存するものであるか否か、という点にあり ます。他によってサポートされるから真理なのではなく、それ自体が真理であるから こそ、たとえ500年経とうとも、その真価が必ず明らかにされたのです。ゴッホの絵 が認められたのも、そこに本当の価値があるからです。  それならば、まして、神の御子イエス・キリストについての「あかし」は、なおさ らでありましょう。主イエスは今朝の31節に「もし、わたしが自分自身についてあ かしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない」と言われました。主イエス は、他からのサポートを求められるどころではなく、御自分の「あかし」をさえなさ いませんでした。あの、十字架におかかりになる直前の、大祭司カヤパの裁判におい ても、御自分に不利な証言ばかりが出てきているのに、ひと言も抗弁をなさらず、黙 して十字架への道を歩んで下さったのです。そして、十字架の上で、御自分を十字架 にかけた全ての人々のために、赦しと祝福を祈られたのです。  では、私たちは、この主イエスに対して、いかなる態度を取っているのでしょうか。 私たちはいつの間にか、主イエスに対して、神の御言葉以外のものから、サポートを 求めてはいないでしょうか。たとえば、ヨーロッパ旅行などに行った人から「キリス ト教を見直した」という話を聞くことがあります。日本では、教会は小さな教会ばか りです。キリスト者の数も人口の1パーセント足らずです。牧師は社会的にも貧しい 生活をしています。けれども、ヨーロッパなどに行くと、教会は街の中心にそびえる 大聖堂であり、キリスト教以外の宗教はなく、牧師は医者や大学教授よりも地位が高 く尊敬され、キリスト教文化は社会の隅々にまで浸透しています。  そういうものを見聞してきた人から、キリスト教は、本当にすごい宗教だと、感想 を聞くことがあります。先日も、ある教会の月報に、そういう文章が載っていました。 しかし、ではその人は、ふだん、日本の貧しい教会の礼拝に出席して、何を感じてい たのでしょうか。「福音とは、なんと素晴らしいのだろう」「キリストの救いとは、な んと確かなものだろう」と、日本の教会の礼拝では、思えなかったのだとすれば、そ れこそ、ヨーロッパに行っても、本当に見るべきものを見ておらず、感じるべきもの を感じていないのではないかと、思えてなりません。  私たちは、目に見える事柄、手に触れる事柄にのみ、頼りすぎてはいないでしょう か。そして実は、自分の小さな判断の中に、留まっているだけのことはないでしょう か。私たちは本当に、福音の満ち溢れる豊かさに大胆に生きているでしょうか。主イ エス・キリストに従う歩みをしているでしょうか。信仰がいつのまにか、アクセサリ ーのようになってはいないでしょうか。人から「キリスト者だ」と思われるのを嫌が ってはいないでしょうか。クリスチャンと言われることを恥じてはいないでしょうか。  もし、そうならば、私たちは、使徒パウロの言う「福音を恥とはしない」生きかた とは、逆の生きかたをしています。私たちは、実は“キリスト者”とは名ばかりで、 実は「福音を恥としている」ことはないでしょうか。たとえヨーロッパで「私はキリ スト者である。I am a Christian. Ich bin ein Christ」と、胸を張って言えたとして も、日本で、普段の生活の中で、誰に対しても同じように言えなければ、それは「福 音を恥としている」生活なのです。クリスチャンであることが、社会的なステイタス でもある時には、自分を現わし、逆に、クリスチャンであることが、社会的に反感を 買ったり、笑われたりする時には、自分を隠すような生きかたをしていないでしょう か。 ヘブル書の11章16節には「神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなか った」とあります。罪の塊りのような私たち、恥とせずにはおれないような私たちを、 神は(キリストは)極みまでも愛して下さり、その救いのために呪いの十字架をさえ 担って下さったのです。そこに私たちのたしかな救いがあるのです。  だから使徒パウロは、ピリピ人書1章29節に「あなたがたはキリストのために、 ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」と申し ています。パウロは、キリストを信じることで「苦しみ」を受けることさえ、私たち は「恵みとして賜わっている」と語りました。キリストを信じることが恵みであるの と同じように、キリストのゆえに苦しみを受けることをも、私たちは「恵みとして賜 わっている」のです。  なぜでしょうか。キリストの恵みに生かれるとき、私たちの人生は、そのあるがま まに、永遠に失われない価値(生命)に連なるものとされるからです。たとえ、人が どう評価しようとも、評価されなくても、キリストの十字架の贖いのもとを、主に贖 われた者として生き続けた者の生涯は、多くの人々に、神の愛と祝福を語り告げる生 涯であり続けるのです。その人の人生そのものが、キリストの恵みを物語るのです。 文字どおり「あかし」をするのです。 真理であられるキリストに結ばれて生きるとき、私たちの人生そのものが、揺るが ぬ真理を「あかし」するものとなるのです。福音による真の平和、自由、喜び、幸い をさし示すものになるのです。譬えて言うならば、月のようなものです。月は、それ 自体では輝くことができません。太陽の光を受けて、はじめて、輝くのです。同じよ うに、私たちの人生もまた、それ自体では輝きえないけれども、全ての人を照らした もう、主イエス・キリストの御光に照らされて、私たちの人生もまた、輝きはじめる のです。主の恵みの光を映す存在と、ならせて戴けるのです。 かつて、私が葬儀をした婦人ですが、ごく若い頃、まだ18歳の時に、原因不明の 病気で失明した人がいます。眼病を癒したい一心で、18歳の彼女は、秩父のある寺に 籠って厳しい修行に明け暮れました。しかし病気はますます悪くなるばかりでした。 ついに彼女は人生の希望を失い、ある日、死を決意するのです。それは日曜日の朝で した。「今日は私の命日」と思い、少ない荷物の整理をしていた。すると、どこか遠く のほうから、讃美歌の歌声が聴こえてきたというのです。彼女はそこで、思ったので す。「私は、もしかしたら、まだ、本当の神を知らないのかもしれない」。そう思うと、 涙が溢れて止まらなかった。たまらずに外に飛び出し、その讃美歌の聞えてきた教会 を訪ね、彼女は、そこではじめて、キリストの福音に接したのでした。  そのようにして、洗礼に導かれた彼女は、その時から84歳の生涯を閉じる日まで、 生涯において出会った数知れぬ人々に、キリストの愛と祝福と救いの真理をさし示す 器とされたのでした。押し付けがましいことをしたのではありません。キリストの愛 に満たされ、喜んで生き続けた彼女の姿そのものが、多くの人たちを教会へと(キリ ストへと)導いたのでした。主は、彼女の全生涯を通して、まさに御自身の「あかし」 を現して下さったのです。多くの人々に、まことの生命と祝福と幸いを告げる器とし て下さったのです。 同じヨハネ伝の8章32節に、主イエスは、「真理は、あなたがたを自由にするであ ろう」と語っておられます。文語で申しますなら「真理は汝らに自由を得さすべし」 です。国会図書館の壁にもギリシヤ語でこの聖句が刻まれています。この「真理」と は、主イエス・キリスト御自身のことです。絶対に揺るぐことのない、私たちに対す る“永遠の救い”のことなのです。私たちを生かしめる本当の生命は、ただ変わらぬ 真理なるキリストにあるのです。それだけが本当に人を自由にするのです。罪の贖い 主なるキリストを信じ、教会によってキリストに結ばれて、私たちは「真理」に連な る者とされているのです。この「真理」であられるキリストを信じて、全ての人が救 いにあずかる時が来ているのです。