説    教   ダニエル書7章13〜14節 ヨハネ福音書5章25〜29節

「キリストの生命に生かされて」

2008・04・13(説教08151214)  主イエスは不思議なことを言われます。今朝のヨハネ福音書5章25節以下の御言 葉です。「よく、よく、あなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く 時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分 のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つ ことをお許しになったからである」。  ここに、一つの問いが出て参ります。私たちには「自分のうちに」生命はないので しょうか? 私たちには、父なる神、また、御子なるイエス・キリストが持っておら れるような生命がないのでしょうか?。  答えは「然り」です。私たちには、そのような生命は、ありませんでした。私たち は自分自身の「うちに」生命を持つ存在ではないのです。言葉の最も厳密な意味にお いて、私たちは、自立的な生命というものを持ってはいないのです。  もっとも私たちも、生物学的な意味では、生命を持っています。生きている存在で す。しかし、それはあくまで生物学的な、肉体の生命であって、私たちを真に人間た らしめる生命ではありません。私たちは、たとえどんなに肉体が健康であり、120歳 の長寿に恵まれようとも、それだけでは、本当の人間の幸いな生活とは言えないので す。むしろ、神の御前にいかに生きているかが問われているのです。生物学的な生命 ではなく、霊的な生命こそが人を活かすのです。主は言われました。「人はパンだけで 生きるものではなく、ただ神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」。  すると、どうでしょうか。今朝の25節の御言葉にある「死んだ人たち」とは、他 ならぬ私たち自身のことなのではないでしょうか。たとえば、私たちが毎週告白する 使徒信条に「死人のよみがえり」という言葉があります。あれを私たちはどのように 理解しているでしょうか。あれは生物学的に「死んだ人」のことなのか。そうではな いのです。あれは、罪によって、神から離れてしまった人間の姿をさしているのです。 すると「死んだ人たち」とは、私たち自身の姿なのです。私たちこそ、罪によって「死 んでいた」者なのです。その私たちがいま、教会により、キリストの復活の生命に連 なることによって、キリストの復活の生命に生かされることを「信じます」と告白し ているのです。  大切なことは、その霊的な生命とは、本来、私たちの「うちに」は無かった生命だ ということです。その真の生命は、ただ主イエス・キリストの「うちに」あるのです。 そのことを主は、今朝の26節において「父がご自分のうちに生命をお持ちになって いると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになった」と語っ ておられるのです。もし私たちがキリストを信じて神の子となるならば、父なる神が 子なるキリストに与えたもうたのと同じ霊の生命が、キリストを通して、また、聖霊 なる神によって、私たちにも豊かに与えられているのです。  それならば、その生命は恵みの賜物です。私たちが自分の所有としている「もの」 などではなく、私たちが生きるべき本当の生命(生ける神との永遠の交わり)を、主 は御自身の十字架の贖いによって、私たちに回復して下さった。だから、それは「新 しい創造の御業」とさえ呼ばれます。この世界が神の御言葉によって創造されたのと 同じように、神は受肉した御言葉であるイエス・キリストによって、私たちを新しく 生れさせて下さったのです。私たちの真の生命を創造して下さったのです。  だからこそ、ニカイア信条では聖霊のことを「生命を与えたもう主」と告白します。 イエス・キリストは、十字架において罪と死に勝利せられ、天に上られて、父なる神 の右に座したもうお方として、父なる神のもとから聖霊を私たちにお与えになり、こ こに、御自分の御身体である教会をお建てになり、ここに連なる私たちに、罪と死に 打ち勝つ「復活の生命」を与えて下さった。そこでこそ、はじめて私たちは、真に生 きた者となるのです。死によって終ってしまう生物学的な生命ではなく、死を超えた キリストの生命に連なる者とされているのです。罪に支配された生活ではなく、勝利 者なるキリストに結ばれ、キリストの恵みの主権のもとを歩む、新しい生活を造る者 とされてゆくのです。  現代は、人間が「真に生きる」とはどういうことか、生命の質そのものを真剣に問 わずにはいられない時代です。過去数十万年の人類の歴史を通して、今日ほど物質的 に恵まれた時代はないと言えるでしょう。しかしその半面、驚くほどの生命軽視と虚 しさの風潮が広がっています。江戸時代の封建制度のもとでさえなかったほどの、深 刻な閉塞感、絶望感、倦怠感が、社会全体を覆いつつあります。人間が自由に生きる 環境は整っているのですが、それを私たちは用いえないでいるのです。  先日、ある教育の専門家が語っていたことですが、今日の日本の青少年を取り巻く 環境の中で、深刻になっているものは、表面には現れない「いじめ」の問題なのだそ うです。少なくとも、外から大人が見ている限りでは、その子が「いじめ」に遭って いるとは思えない、そういう隠れた「いじめ」が増えているというのです。たとえば、 一つの教室の中に、幾つかの生徒たちのグループがある。いわゆる「仲良しグループ」 のようなものです。その「仲良しグループ」の内側で、グループのメンバーによって 「いじめ」が起こるというのです。すると、どういう構図になるかと申しますと、あ る特定のグループに属してさえいれば、少なくとも、他のグループの子供たちからは 「いじめ」を受けないですむ。そういうことから、子供たちがいちばん恐れることは、 グループから孤立することなのだそうです。  すると、どうなるか、どのグループにも属さない子供、いわば個性的な生徒、独立 心の高い生徒、いわゆる「少し変わった生徒」は、どのグループからも「いじめ」を 受けることになるのだそうです。それで、子供たちは、まだしもグループの中で「い じめ」を受けているほうがましだ。グループからはぐれることがいちばん怖いと言う 心理になるそうです。私は、これを聞いて、ああ、ここには紛れもなく、大人社会の 縮図があるなと思いました。問題は子供たちだけのことではありません。私たちの社 会全体がどのような生命に生きているかが問われているのです。私たちこそ「協調性」 という美名のもとに、実は徒党を組んで、目に見えない「いじめ」の循環を作ってい るだけの存在なのではないか。  真のキリスト者は、徒党を組みません。徒党を組む必要がないのです。それは、人 間の集団の中に生活の指針があるのではないからです。永遠なる神の御言葉の中にこ そ、私たちを導く真の指針があるのです。真のキリスト者は付和雷同せず、また人に も付和雷同を求めません。自分が神の御前にいかに生きているかが問われているので あって、他人の評価や毀誉褒貶で人生の価値が決まるのではないからです。  それは、個々の人間の生きかただけではありません。いわゆる「近代民主主義国家」 というものも、その根底には、独立自主の人格というものがなければ、民主主義とい うシステムそのものが機能しないのです。器は新しいが、中身は旧態然としているの では、日本はいつまで経っても真の民主主義国家にはなりえないでしょう。東ヨーロ ッパ諸国が十数年前に劇的な政変をとげ、従来の社会主義から一挙に民主主義への道 を歩みはじめました。わが国のある大臣がそれを見て、日本は民主主義の先輩なのだ から、教えてやろうと申しましたが、私は、それは逆だと思います。チェコにせよポ ーランドにせよハンガリーにせよ、社会主義という衣装を無理やり着せられていただ けであって、その本質はキリスト教に基づく自由主義国家です。だから多少の混乱は あったものの、今の日本よりもはるかに実質的な民主主義制度を形成してゆくのは自 然な筋道でした。むしろ、私たちのこの国のほうが問題なのです。  そして、このような個人の、社会の、あるいは国家の制度そのものにさえかかわる 問題の根底には、人間が、自分を真に生かす「生命」を持ちうるか否かという問題が あるのです。きわめて神学的な問いが横たわっているのです。端的に申しますと「人 間自身の内側に、人間の救いはあるか」という問題です。それに対して、聖書ははっ きりと「否」を語るのです。人間を救う力は、生命は、人間自身の内には「ない」の だということを、はっきりと語るのです。私たちは、自分の「うちに」自分を真に生 かし、また、他者をも、真に生かしめる生命を「持ってはいない」のです。それが社 会形成の原動力とはなりえないのです。そうではなく、私たちを真に生かす生命は、 ただ主イエス・キリストの「うちに」あるのです。それが聖書の告げている福音の本 質なのです。  なぜならば、福音とは「救いのない者にこそ、救いがある」という音信だからです。 「救いのない者には、救いはない」というのは、人間の限界性の表明にすぎません。 その限界性を打ち破って、私たちを新しい生命に生かしめるものこそ、主イエス・キ リストの福音です。キリストは、私たちの罪のどん底においでになったかたです。キ リストが担われた十字架は、私たちの罪と滅びそのものです。それを、主は身代わり になって担って下さったのです。死すべき私たちを生かし、滅ぶべき私たちを救うた めに、神の子みずから、十字架に死なれ、滅びを引き受けて下さったのです。それが、 キリストの十字架の意味です。  このキリストの、十字架の御業において、罪と死が私たちの人生に引く冷徹な限界 は、ことごとく取り去られたのです。神と私たちとを隔てる中垣が取り除かれたので す。聖所の幕は取り払われたのです。キリストの贖いの御業によって、私たちはもは や恐れることなく、大胆に、恵みの御座に近づくことができるのです。主の御顔を拝 することができるのです。主にお仕えすることができるのです。主に従う歩みが造ら れるのです。そこにこそ、人間の本当の幸いがあり、自由があり、平和と喜びがある のです。徒党を組む必要がないのです。まことの牧者なるキリストがおられるからで す。付和雷同する必要もないのです。キリストが審き主であられるからです。  今朝の御言葉は、さらに28節にこう語ります。「このことを驚くには及ばない。墓 の中にいる者たちがみな神のこの声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるた めによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それ ぞれ出てくる時が来るであろう」。  ここには、主が再び世に来られるとき、何が起こるかが記されています。しかし、 ここで大切なことは、私たちの「行い」云々ではなく、むしろ真の審き主が十字架の 主であられるという事実です。そもそも、私たちが自らの力で「善をおこなう」こと ができるでしょうか。たとえ力の限りに善きわざを行おうとも、神の御前にはそれは 少しも、私たちの救いとはなりえません。私たち自身の内側には、私たちを救ういか なる生命もないからです。そうではなく、キリストの生命が、私たちを救うのです。  それならば、ここに記されていることも、善なることをなしえず、むしろ主の御前 に「悪しき者」でしかありえない私たちをこそ、キリストは贖って下さった。その贖 いの恵みの真実に、あなたは立ち続けなさい、という招きの言葉なのです。それ以外 に私たちの幸いの人生はありえない。キリストに贖われた者として、教会により復活 のキリストに連なって生きる生活のみが、私たちに真の生命を与える生活なのです。 何よりも「墓の中にいる者たちがみな神の声を聞く」とは、いまここにおいて、この 礼拝において、私たちの生活のただ中において、実現していることなのです。“罪”と いう名の決定的な“墓”の中にあった私たち、神の御前に「死んだ人」であった私た ちが、今ここで、神の御声を聴いているではないか。その御声を聴いた者(キリスト に出会った者)は永遠の生命に、復活の生命に生かされているではないか。私たちは その出来事を経験しているではないか。その喜びと幸いのうちに、新しい生活が造ら れてゆくではないか。そのことを、今朝のこの御言葉は全ての人々に宣べ伝えている のです。  審かれるほかはない私たちの「わざ」です。死する以外にはない私たちの生命です。 しかし、その私たちのわざを、主は、教会に連なる新しい人生において、祝福へと変 えて下さいました。死する以外にない私たちの生命ではなく、御自分の御復活の生命 に連なって生きる者として下さいました。ここに、本当の人間の生活が、歩みが、造 られてゆきます。キリストに従い、キリストの贖いのもとを、キリストを見上げつつ、 信じつつ、讃美しつつ歩む、新しい生活です。それは、決して終ることはないのです。 それだけが、永遠に続く、価値ある生活なのです。そこに、今朝の御言葉を通して、 全ての人々が等しく、招かれているのです。