説    教    詩篇138篇1〜8節  ヨハネ福音書5章9(B)〜18節

「視よ、なんぢ癒えたり」

2008・03・30(説教08131212)  自分の力ではどうにもならない、苦しみや悲しみに出遭ったとき、人はなおどのよ うに、生きてゆくことができるのでしょうか。  大江健三郎の小説に「人生の親戚」という作品があります。「人生の親戚」とは本来、 古代ギリシヤの言葉で、苦しみや困難をあらわす言葉です。  この小説では、二人の子供を持つ、ある婦人が主人公なのですが、上の子は重度の 知的障害を持っており、そして健常者であった下の子も、交通事故に遭って下半身不 随になってしまうのです。こうした家庭の悲劇の中で、夫は仕事を辞めてアルコール 依存症になります。夫婦の関係も次第に壊れてゆく…。やがて家庭そのものが崩壊し てしまうという設定です。  しかも、この破局に追い討ちをかけるように、この二人の子供もまた、相次いで死 んでしまうのです。聖書の言いかたで申しますなら、ここにはきわめて「ヨブ的な体 験」というものが設定されているのです。旧約聖書のヨブが受けたような、筆舌に尽 くしがたい理不尽な人生経験の中で、母であり、妻であり、女性であるこの婦人に、 否、私たち人間に「なお、生きてゆく道がありうるのか」と、この作者は問うている わけです。この作者自身が、障害を持つ子供の親であります。  今朝のヨハネ伝第5章に出て参ります、38年間病気で寝たきりであった人も、同じ 「ヨブ的な体験」の中に身を横たえていた一人だったのです。この人にとってもまさ に、理不尽な人生の苦難そのものが「人生の親戚」でした。誰ひとりとして助けてく れる人はいなかったのです。手をとって、共に涙してくれる人さえ無かったのです。 絶望だけが、この人の安住の場であったのです。  まさに、この絶望のただ中にこそ、主イエスが訪ねて来て下さいました。どんな光 もありえない暗黒のただ中に、神の子みずから「すべての人を照らすまことの光」と して来て下さいました。主イエスだけが、この人の全ての苦しみを受け止めて下さり、 滅びへと向かうその存在の重みを、十字架の愛をもって抱きとめ、この人に「なおり たいのか」と問われ、「起きよ、床を取りあげて歩め」と告げて下さったのです。 そこに、決して立ちえない者が、キリストの愛と祝福の内に立ち上がり、キリスト と共に歩む者へと、変えられてゆきました。憎みつつもなおそこに安住していた、絶 望という名の「床」をさえ「取りあげて、歩む」者とされたのでした。  私たちは、まさに礼拝のたびごとに、この人をお救いになった主イエスが、私たち をも同じように「人生の親戚」の中で立たしめ、共に歩んで下さることを、聖書によ って知る者とされているのです。私たちは礼拝のたびごとに、主イエスにお会いしま す。礼拝者として生きるその歩みの中で、私たちは、キリストの限りない愛と憐れみ の内に、みずからの信仰の歩みを整えられ、祝福の生命を戴いて、世のあらゆる「人 生の親戚」の中へと、主に支えられつつ遣わされてゆくのです。この幸いと平安を与 えられた者として、ここに連なる私たちに、さらに今朝のヨハネ伝5章9節以下の御 言葉が与えられています。  主イエスのなさる救いの御業は、ただ単に“肉体の癒し”(身体の救い)にとどまり ません。私たち人間を真の不幸と絶望に陥れている、生ける神との断絶、すなわち「罪」 の支配にまで及ぶものです。私たちは時に主イエスに向かって「主よ、この苦しみさ え無くなれば(病気さえ治れば)私の救いは十分です」と思うことがあります。言い 換えれば、私たちは自分で自分の救いを決めてしまうことがよくあるのです。しかし 主イエスは、私たちの思いをはるかに超えて、私たちが本当に必要とする真の救いを、 私たちの身体を癒されたのと同じように、私たちの全存在に、魂にも、現わして下さ るのです。  主の言葉によって「立ち上がって、床を取りあげ、そして歩んでいった」この人の 姿は、まさしく安息日における私たちの姿そのものです。主に贖われた人間の姿がこ こにあります。明るく、ほがらかな、平安に満ちた光景です。今までは、絶望の闇に 支配されていた人間が、立ち上がり、床を担いで、主を讃美しつつ、驚く人々の間を 歩いてゆく。それは何よりも、私たちのこの安息日、この礼拝において、起こること なのです。日曜日の私たちの姿なのです。  主の憐れみ、十字架による罪の贖いの御業が、私たちの「人生の親戚」にさえ触れ て下さるとき、私たちの生活の全体、まさしく聖書が「からだ」と呼んでいる私たち の存在そのものを救うのです。魂だけが救われて、身体が取り残されるということは 絶対にないのです。そのことを、この人に起こった救いの出来事がはっきりと示して いるのです。  私たちは礼拝を終えたら、再びピスガ台の坂道を、それぞれの家路へと帰るのです。 いつまでも礼拝堂に留まるわけではありません。そして、新しく始まった一週間のあ いだ、私たちはそこで様々な悩みや苦しみを経験します。まさに「人生の親戚」との つきあいを余儀なくされるのです。それこそ、私たちの「身体」において起こる生活 です。  これを、主は、どうでも良いものとはされません。私たちキリスト者は、使徒信条 を通して「(われは)身体のよみがえり(を信ず)」と告白します。これは主が、罪の 赦しだけではなく、そのことによる「身体の復活」をも、私たちに与えて下さったと いう告白です。まさにその恵みにおいてこそ、私たちは、一週間の新しい生活へと遣 わされ、そこで様々な戦いや困難の中でこそ、私たちの全存在を堅く支えていて下さ るキリストの愛と祝福の御手の中に、自分を見出すのです。「人生の親戚」をさえ見い だすのです。あるがままに、キリストの祝福の生命を戴く者とされているのです。  そこでこそ今朝、私たち一人びとりに主が告げていて下さる言葉が、今朝の14節 です。「そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、『ごらん、あ なたはよくなった』」。この「そののち、イエスは宮でその人に出会ったので」とは、 この礼拝の場で、主が確かに私たちに出会っていて下さる、いまここで、主が私たち を迎えていて下さっているということです。そこでこそ主は「ごらん、あなたはよく なった」と、私たち一人びとりに告げていて下さるのです。「ごらん」とは、その事実 はいまあなたを支えている、ということです。あなたのまなざしの全てを、共にいる 私に向けなさいと、主は言われるのです。  そもそも「あなたはよくなった」とは、どういう意味なのでしょうか。「あなたの健 康は回復した」というだけの意味なのでしょうか。そうではありません。これは「あ なたの罪は赦されている」という恵みの宣言です。罪の赦しの言葉です。主は私たち に言われるのです「あなたの罪は、私が身代わりになって取り去った。あなたを脅か している滅びは、私が十字架において背負った。あなたはすでに、赦され、救われた 者である。だから、安心して生きなさい」。あなたはいま、立ち上がって、床を取りあ げて、歩むことができる。あなたは既に、私の恵みの内を歩む者とされている。あな たは既に、癒され、甦った「身体」をもって、人生を生きている。そのように主は、 ここにはっきりと告げていて下さるのです。  そこで、私たちは今朝、この主の御言葉に対して、心から「アーメン」と言わねば なりません。他の誰でもない、主が私たちに「ごらん、あなたはよくなった」と告げ ていて下さっているのです、私たちはこの恵みに対し、心から「アーメン」と告白す るのみです。私たちはそれこそ、あらゆる人生の戦いの中で、絶望を「人生の親戚」 にするような現実の中でさえ、なお「主よ、あなたは、私のすべての罪を赦し、私を 癒して下さいました」と讃美告白する者とされているのです。言い換えるなら、私た ちはいついかなる時にも、キリストの御手の内にあるのです。キリストに贖われ赦さ れ、あるがままに受け入れられている存在なのです。キリストに堅く結ばれた私たち の「身体」を、教会において、主の御手から戴く者とされているのです。  ずいぶん信仰生活の長い人でも、時として、自分を、神から遠い存在のように思う ことがあります。「こんな私は救われない」と思いこむことがあるのです。過ぎし一週 間を振り返るとき、いまの自分がいかにも“神にふさわしくない”と感じる私たちで あるかもしれません。私たちの足取りは、いつでも再び重くなってしまうのです。私 たちは再び、もとの「床」に帰りたい誘惑を感じているかもしれないのです。  しかし主は、まさしくそのような私たち一人びとりに「ごらん、あなたはよくなっ た」と、はっきりと告げていて下さる。「あなたは既に癒されている」と告げていて下 さるのです。「あなたの全ては私の愛のうちにある」と宣言して下さっているのです。 「その恵みを、あなたから奪いうる者はいない」と、堅く約束していて下さるのです。 その救いと約束には、主が担って下さった十字架の重みがかかっています。だからこ そ確かなのです。その、主の十字架の重みに対して、私たちはなおも「いや、そうで はない」と言い張ることができるでしょうか。それこそ、傲慢の罪ではないでしょう か。「アーメン、主よ、信じます。信仰のない私をお助け下さい」と、心から申し上げ るのみなのです。  私たちは、同じ新約聖書コリント人への第二の手紙12章7節をもって、今朝の「ご らん、あなたはよくなった」という御言葉の理解を深めたいと思います。そこには、 このように記されているのです。「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一 つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使な のである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主 に祈った。ところが、主が言われた。『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わ たしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿 るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためな らば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わ たしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」。  この、パウロの肉体の「とげ」が何をさすか、いろいろな説があります。ガラテヤ 書4章に「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあった」 と記されていることから、たぶんパウロの病気は、それを見た教会の人々にとっても 試練となるほどのものであり、また「できることなら、あなたがたは自分の目をえぐ り出してでも、わたしにくれようと思ったのだ」とあることから、重度の眼の病では なかったかとも思われます。いずれにせよ、ここでまさしくキリストは、その肉体の 大きな痛みを持つパウロに、あなたはその「とげ」を持ったままで良いのだ。そのま まで、あるがままで、私の立派な働き人でありうるのだと、そう告げていて下さるの であります。  福音伝道のわざに召されたパウロにとって、その肉体の「とげ」はどんなに大きな 障碍だったことでしょう。世界中を巡って一人でも多くの人に福音を宣べ伝えんとす るパウロの願いを、いつもその肉体の「とげ」が妨げたのです。それでパウロは「わ たしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った」と語っています。「三度 も」というのは、絶えず祈っていたという意味です。自分が苦しいから祈ったのでは ありません。伝道のため、福音のため、主に仕えるために、この「とげ」さえなけれ ばと、いつも思わされておればこそ、祈らざるをえなかったのです。これは当然の祈 りでありましょう。しかしその祈りは、パウロの願いのままには、適えられなかった のです。  むしろ、そこでパウロが主から受けた言葉は「わたしの恵みは、あなたに対して十 分である」というものでした。「ごらん、あなたはよくなった」と言われる主は、同時 に「わたしの恵みは、あなたに対して十分である」「わが恩恵なんぢに足れり」と告げ て下さるおかたなのです。この二つの言葉は、同じ恵みを示しているのです。なぜ同 じかと言いますと「わが恩恵なんぢに足れり」と告げられていることは、私たちが否 定する弱いところに、それが病気であれ、苦しみであれ、不幸であれ、挫折であれ、 その時、その状態の中にあって、なおあなたには、あなたを立ち上がらせ、歩ましめ る「恵み」が共にあると、主が語っていて下さることなのです。  あなたを生かしめる恵みは、あなたが“最大の不幸”だと嘆く現実の中にさえ、あ なたに満ち溢れているではないか。そう主は告げていて下さるのです。あなたはすで に、その満ち足りる恵みのもとにあるのだ。病気が治ったから恵みなのではない。不 幸がなくなったから恵みなのでもない。わたしの恵みは「人生の親戚」とあなたが呼 ぶほどにあなたから離れない、その苦しみや病気の中にさえ、否、その中にあってこ そ、あなたを豊かに支え続けるのだと、主ははっきりと告げていて下さるのです。私 たちが「不幸だ」と嘆く現実の中にさえ、満ち足りる「キリストの力」が私たちを支 え続けます。主は、私たちが絶望に伏すその所にさえ、私たちと共におられるのです。 そこでこそ、私たちの人生の歩みは「ベテスダ」(憐れみの家)での歩みとなります。 主の大いなる憐れみが、私たちの身体を、身も魂をも、癒すのです。  キリストに贖われた私たち一人びとりを、キリストの復活の生命が生かしめて下さ います。キリストの「恵みが支配している」私たちなのです。私たちはもはや罪の支 配のもとにはない。キリストの満ち溢れる恵み、絶大な勝利の御力が、私たちを支配 しているのです。癒されぬ病気、去りえぬ不幸の現実の中にあっても、いや、その中 にあってこそ、主の測り知れない愛と恵みが、私たちの人生を力強く貫く柱であり続 けるのです。それが「ごらん、あなたはよくなった」「わが恩恵なんぢに足れり」と言 われる御言葉の意味です。あなたは生くるにも、死ぬにも、死を超えてまでも、永遠 に、キリストの所有であるという事実です。それが「ごらん、あなたはよくなった」 という宣言なのです。  まさに、そのキリストの恵みに、いま共にあずかり、満ち足らしめられている者と して、どうか私たちは、心を高く上げて信仰の歩みを貫き、キリストに従う者として、 生命のかぎり、主と共なる信仰の歩みを、雄々しく歩みぬいて参りたい。そして主の 御前に、いっさいの栄光を帰したてまつる群れでありたいと思います。