説    教    詩篇30篇1〜12節   マタイ福音書28章1〜10節

「復活の使信」 イースター(復活日)礼拝

2008・03・23(説教08121211)  主イエス・キリストの復活を覚えるこのイースター礼拝において、私たちに与えら れました聖書の御言葉は、マタイによる福音書28章1節から10節の御言葉です。そ の第1節を見ますと「さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラの マリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた」と記されています。この「安息日」とは、 旧約聖書の伝統に基づく週の最後の日(つまり土曜日のこと)です。その翌日「週の 初めの日の明け方」とあるのが日曜日です。キリストの復活の出来事は、この日曜日 の朝に起こりました。 ですから、私たちキリスト教会が、日曜日を「主の日」すなわち「安息日」として 聖別し、礼拝を献げる理由は、その日が、主の復活の日だからなのです。その意味で、 毎週日曜日の礼拝が、主の復活(イースター)の記念礼拝だと言えるでしょう。  もちろん、今日の御言葉のマグダラのマリアたちは、まだその喜びを知るよしもな く、ただ深い悲しみに心覆われた者として主イエスの墓前に来たのです。惜別の涙を 注ぎ、主の思い出に浸らんとして、日曜日の早朝、主の墓の前に、女たちは連れ立っ てやって来たのでした。  墓は葬りの場であり、葬りは「死の完成」を意味します。墓に葬られた者は、死に 完全に支配された存在です。そこでは生命は完全に無力であり、ただ死だけが永遠に 君臨しています。たとえ人間が、死の支配に抗う者のごとく愛する者の墓前に涙しよ うとも、そこで直面するのは“死の勝利”という冷酷な現実のみです。「塚も動け我が 泣く声は秋の風」。せめて墓よ、わが泣く声に応えて動けよかしと願う。しかし、そこ にあるものは永遠の沈黙だけなのです。  ところが、この日、主の墓の前に来た彼女たちに、驚くべき出来事が起こりました。 今朝の御言葉の2節が次のように告げているとおりです。「すると、大きな地震が起 った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわ ったからである」。「大きな地震」とは単なる自然現象のことではありません。地の基 が、人間の世界の根本が、震い動かされたということです。決して動くはずのないも のが動いたのです。それは何かと申しますと、私たち人間を支配している罪と死の力 が、キリストの復活によって、打ち砕かれたのです。  まさにそのことが、ここに記されている、墓の入口の「石」に象徴されています。 当時のユダヤの墓は横穴式の洞窟のような形でした。そして墓の入口は丸い大きな石 で塞がれたのです。その石は非常に大きくて重く、マリアたちの力ではとうてい動か せるものではありませんでした。ところが天からの「御使」が、いとも易々とそれを 「わきへころがし」たのみならず「その上にすわった」というのです。「その上にすわ った」とは、罪と死の支配を足もとに従えたということです。死の力を足蹴にし打ち 砕いたのです。この出来事が「大きな地震」となって現れたのです。  そこで、その御使(天使)の「姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真 白で」ありました。御使は神の栄光を世に現わす僕です。だから4節を見ますと「見 張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった」ので した。この「見張り」とは、祭司長やパリサイ人たちが、主イエスの墓の周囲に配備 した警備の兵士たちです。その兵士たちが、主の復活を告げる御使(天使)の姿に接 して「死人のように」なったのです。それはキリストの復活が、罪によって死んでい た私たちを甦らせるのみならず、罪の内に生きている私たちが、実は神の前に「死ん でいた」者である事実を明らかにしています。  言い換えるなら、キリストの復活の出来事において、生と死は大逆転をしたのです。 主は「わたしが来たのは、この世に剣を投げこむためである」と言われました。この 世界に生命の剣が投げこまれたのです。罪によって死んでいた者が、復活のキリスト に連なって、新たな喜びの生命に甦らされ、その逆に、おのれを誇り、おのれを中心 としていた古き罪なる私たちの生命が「死人のようになった」のです。 復活のキリストの御前では、罪によって死んでいた者が甦らされると共に、みずか ら生きていると思い上がっている者は「死人のように」なるのです。「死の支配」とい う私たちの現実に、復活の生命を注ぎこんで下さった主は、私たちを虜にしている罪 の支配に対して、永遠の死を宣告される勝利の主でもあられる。そのことが、ここに 現されているのです。  まさにこの、復活の主の勝利の宣言を、御使(天使)は、悲しみと絶望に暮れるマ リアたちに告げるのです。それが5節以下の御言葉です。「恐れることはない。あな たがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかってい るが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。 さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子た ちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより 先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』」。  マリアたちの悲しみは、あの封印された重い墓石の向こうに、主の亡骸がある。し かも自分たちは、その石を取り除けて、主の御身体に触れることさえできないという 事実にありました。死と葬りという残酷な現実の前になすすべもなく、みずからの悲 しみと絶望を癒す何物も持ちえなかったのです。ただ永遠の沈黙だけが…虚無と絶望 だけが、そこにあったのです。  私が高校生のときのことです。クラスで最も親しくしていた友人が、劇症の急性白 血病で亡くなるという出来事がありました。上州・赤城山の麓にある彼の実家の墓に 葬られることになり、私は級友たちと共にその葬儀に(葬りに)出席しました。友人 の亡骸は樽型の棺桶に押込められていました。僧侶の読経のあと、私は級友たちと共 に友人の棺桶を担いで野辺送りをし、杉木立の中にある墓地の墓穴に埋葬しました。 その時の虚無感と絶望感を、私は生涯忘れることはできません。このような人間の人 生と存在に、いったい何の意味があるのかと真剣に悩みました。それは私が教会の門 を叩く直接のきっかけになりました。 最初に教会の礼拝に出席し、使徒信条の告白に接したとき、私はそこで決定的な衝 撃を受けました。「主は…ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、死にて葬られ、陰 府に降り…」と告白されていることです。キリストとは、何というおかただろうかと 思いました。私はその8ヵ月後に洗礼を受けたのですが、最初の礼拝において既にキ リストを「救い主である」と確信させられていました。キリストは「死にて葬られ、 陰府に降り」たもうたおかたなのです。それほどまでにして、私たちの果てしない虚 無と絶望を担い取って下さったのです。このかたが救い主でなくして、誰が救い主で あろうかと思いました。  虚無と絶望だけが支配するはずの墓が、生命の門に変えられたのです。この世界に、 私たちの人生に、神の無限の愛が注ぎこまれたのです。それこそ「イエスは死人の中 からよみがえられた」と御使が告げた復活の出来事です。主は甦られて、ここには、 墓の中には、もはや「おられない」。この事実が、彼女たちの存在を震い動かすのです。 罪と死に覆われていた私たちが、復活のキリストに連なる者とされ、キリストの賜わ る新しい生命に甦らされ、急いで「墓を立ち去り」、喜びをもって主を讃美しつつ、同 じ悲しみと絶望の内にある全ての人々に、主の御復活の福音を宣べ伝えてゆくのです。 新しい生命の祝福の歩みが、そこに造られてゆくのです。  イスラエルのエルサレム、主イエスの当時のゴルゴタと言われる丘の頂上に、聖墳 墓教会が建っています。そこにキリストの墓という洞窟が、いまなお残されています。 暗いドームの中央にあるその洞窟に入るために、世界中から大勢の巡礼者が集まり、 行列を作っています。しかし私たちは、今朝の聖書の御言葉を聴いています。「主はよ みがえって、もうここにははおられない」。キリストは過去の偉人ではないのです。私 たちの(全世界の)救い主として、墓から復活されて、いま生きて私たちと共におら れる贖い主なのです。あの棺桶に押しこめられ、埋葬された16歳の少年と共にさえ いて下さるおかたなのです。これほど確実なことがどこにあるでしょうか。復活の主 はいま生きて働いておられるのです。だからマリアたちも「急いで墓を立ち去った」 のです。  主は甦られて、永遠に罪と死に勝利された救い主として、御父と共に、聖霊によっ て、私たち全ての者と共にいて下さいます。全ての人々を、御自身の復活の御身体で ある教会に招きたもう主として、救いの御業をなさっておられるのです。それならば、 私たちが急ぐべき場所は、まさにこの礼拝の場であります。そればかりではありませ ん。御使は墓を塞ぐ石を「わきへころがし、その上にすわった」のでした。それなら ば、まさしく主に遣わされ、立てられた私たちの教会は、復活の主の御身体として、 生と死を分断している重い石を、御言葉によって取り除ける務めを主から賜わってい るのです。  私たちはここに、生きる時にも、死ぬ時にも、私たちの唯一の慰め主であり給うお かたを信ずる者として、礼拝に連なっています。まさにその主を、主の御言葉を、私 たちは聴いて信じるのです。「命あっての物種」とよく世間では申します。しかしたと えいかに健康であり、長寿を保ち、豊かな生活をしようとも、罪によって神から離れ、 神との交わりを失ったままの人生は、葬りによっていっさいが断絶する虚無の人生に 過ぎません。そこには何の意味も慰めもないのです。死を超えたまことの生命を知ら ない人生は、死を主人とする人生です。ひと時は光があっても、やがて永遠の闇が覆 うだけなのです。  しかし、復活の主はまさしく「すべての人を照らすまことの光」であり、罪と死の 闇に打ち勝たれた唯一の永遠の救い主です。それゆえ、私たちは「命あっての物種」 などではなく、生きるにも、死ぬにも、主に贖われた者であり続けることを、すべて にまさる幸いとする人生を生きる者とされているのです。最近“クォリティ・オヴ・ ライフ”(人生の質)という言葉が流行していますが、キリストの愛と恵みこそが、人 間の生に本当の意味を与えるクォリティ(価値)なのです。だから使徒パウロは「わ たしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」とさえ語りま した。自分がいつも心から願うこと、それは生きるにも、死ぬにも、ただ神の栄光の あらわれることだと言うのです。  このイースターの喜びの日、キリストの復活を祝い、讃美するのは、それが教会に 連なり、主を信ずる私たちの、復活の喜びを告げる日であるからです。そのかたは過 去に記念される偉人ではなく、まさに今ここで復活の主として、私たち全ての者を、 罪と死の支配から立ち上がらせ、新しい生命に歩ませて下さるキリスト(救い主)な のです。この世界を支配する究極の力は、罪と死の力などではなく、キリストの十字 架における神の愛であり、罪の赦しと贖いの真実であるということを、私たちは信ず る者とされているのです。 主は「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」と御使いは申します。私たちは「そ こで(主に)お会いできる」と約束されています。この「ガリラヤ」とは私たち一人 びとりの人生であり、生活の場であり、死の彼方さえも現わしています。私たちがど こに行こうとも、どんな人生を生きようとも、そこで復活の主の御手が私たちを支え て下さる。そこで私たちを生命へと導いて下さるのです。私たちが主イエスを迎える のではなく、生きるにも、死ぬにも、ただ私たちの罪の贖い主として、復活の主が、 私たちを迎えて下さるのです。死を超えてまでも、キリストの恵みの真実が、私たち の朽つべき全存在を支え、贖っていて下さるのです。私たちは、その恵みを知り、そ の恵みに生かされ、その恵みを宣べ伝え、その恵みに共にあずかる群れなのです。  主はまさしく「死の門」から、私たちの全存在を「引き上げて」下さいました。御 自身の十字架の死をもって、そして復活をもって、死の門を砕き、全ての人が生きる べき、まことの生命を、まことの身体を、この世界に現して下さいました。私たちは、 その主の復活の証人です。大きな喜びと感謝をもって「急いで墓から立ち去り」、そし て主イエスの「み足をいだいて」礼拝した今朝の御言葉の人々のように、私たちもま た、天にあり、地にある、全ての主の民と共に、「イースターおめでとう。まことに主 は、私たちのために、あなたのために、甦られました」と、宣べ伝えてやまないので す。この大いなる恵みに感謝しつつ、その恵みに応えてゆく、信仰の歩みを続けてま いりましょう。