説    教   ネヘミヤ書3章1〜2節   ヨハネ福音書5章1〜9節

「ベテスダの奇跡」

2008・03・16(説教08111210)  「過越の祭」の季節のエルサレムはちょうど、あめんどうの花がいっせいに開花す る美しい季節です。そこに例年のごとく、主イエスは礼拝のために上京されました。 弟子たちもみな主イエスに従い、エルサレムにやって来たのでした。  全国各地から集まった人々で、エルサレム市内は大変な賑わいでした。大通りには 人々が溢れ、色とりどりの衣装を纏った巡礼者たちが、神殿の境内を埋め尽くしてい ました。しかしそのような中にあって、主イエスのまなざしは、人々が見ているとこ ろとは全く違うところを見ておられたのです。  エルサレムの「羊の門」と呼ばれる門の近くに「ベテスダの池」という大きな池が ありました。乾燥地帯ですから、オアシスと言ったほうが正しいかもしれません。し かし、そのオアシスはなぜか、人々が寄りつきたがらない場所でした。  なぜかと申しますと、そのベテスダの池の周囲には、五つの回廊が廻らされていて、 形ながらも屋根があったため、強い日差しや夜露などから身を守ることができたもの ですから、そこはいつしか、様々な病気を患う人々がたくさん集まって参りまして、 一種独特の環境を作っていたからなのです。  当時のユダヤの人々にとって、病気になるということは、病気の種類にもよります が、多くの場合、社会的にも宗教的にも「穢れた」存在になることを意味しました。 ですから、ひとたび不治の病にかかりますと、家族からも、友人からも、社会からも 見放され、孤独のうちに、死を待つばかりの生活を余儀なくされたのです。このベテ スダの池は、まさにそのような見捨てられた人々が、ひっそりと身を寄せ合って生き る、いわば隔離病棟のような場所だったのです。  この回廊の片隅に、実に38年間も、病気で苦しんでいた人がいました。ベテスダ の池の回廊はちょうど、池へと向かって傾斜した雛壇のような構造になっていました。 段を降りて池に近づく仕組みになっていたのです。その回廊のいちばん奥まったとこ ろ、つまり、池から最も遠い所に、今朝の御言葉に出てくるこの人は、あたかも生け る屍のごとく、力なく身を横たえていたわけです。  ベテスダの池に病気の人々が集まっていたのは、そこに古くからのある言い伝えが あったからでした。それこそ一年に度か、この池の水が激しく波打つことがあるので す。たぶんそれは、間歇泉か何かであったと思われるのですが、当時の人々にはそれ は、天から神の使いがやって来て、水に触れるために起こるのだと信じられていまし た。そして水が動いたとき、真先に池に飛びこんだ人は、どんな難病であってもたち どころに癒されるという言い伝えがあったのです。  いわばこれは、迷信のたぐいにすぎません。健康な時には気にもとめないことです。 しかし人間は病気になりますと、それこそ藁をも掴む思いになるのではないでしょう か。迷信だと笑われても、一縷の望みをそこに託して、残された唯一の癒しの機会を 何とかして捕えんと、せつに望むようになるのは当然なのです。いつ起るとも知れぬ 微かな癒しの希望を頼みとして、実に38年もの長い年月をこの人は、回廊の片隅で 過ごしていたのでした。それは思い出すだに辛い、気の遠くなるような年月であった にちがいありません。  ある日、何の前触れもなく、水が動くことがあります。明け方か、夜中なのか、昼 間なのか、それさえもわかりません。突如として池の水面が激しく波立つ。すると、 周囲の人々がいっせいに、異様な叫び声を上げながら、池に向かって殺到するのです。 人を押しのけ、踏みつけてまでも、われ先に池に飛びこもうとするのです。それは醜 い争いの姿です。しかし、そこにしか希望はないのですから、彼も一応は、自分の身 体を動かそうとするのです。  しかし、その時には既に、誰かが飛びこんでしまった後なのです。真先に飛びこめ る人はいつも、池のそばに陣取っている比較的元気な人、あるいは、助けてくれる者 がいる人です。本当に救いを必要とする重病人や、誰も助け手のいない人は、池に近 づくことさえできないのです。「ベテスダ」とは「憐れみの家」という意味なのですが、 そこには言葉とは裏腹に、人間の地獄絵図がありました。誰も彼を助けてくれる人は いなかったのです。痛みや苦しみを分かち合ってくれる人はいなかったのです。それ こそまさに、今日の世界の縮図ではないでしょうか。 池の水が鎮まり、阿鼻叫喚の一刻が去ったあと、人々は再びもとの硬い表情に戻っ て、力なく自分の寝床へと帰ってゆきます。果てしない空しさだけが残るのです。や がていつの日か次の機会が訪れるまで、同じような虚しく単調な日々が、癒されえぬ 病気の苦しみと共に流れてゆくだけなのです。  まさにこの場所に、主イエスが来て下さいました。「憐れみ」などどこにもない「憐 れみの家」(ベテスダ)に、主は訪れて下さいました。そしてまっすぐに、この回廊の いちばん片隅(池から最も遠い場所)に横たわっている、この人のもとに近づいて来 て下さったのです。彼が粗末な寝床の上に、力なく横たわっているのをご覧になって、 主イエスは「なおりたいのか」とお尋ねになりました。今朝の御言葉の6節には「(彼 が)長い間わずらっているのを知って」と記されています。主イエスには、彼を一目 ご覧になっただけで、彼の今までの苦しみと絶望の全てを見抜いて下さいました。彼 の人生の痛みと苦しみを、主が共に担って下さるのです。  しかし、主イエスがなさった問いかけの、なんと不思議なことでありましょう。38 年間も病気と戦ってきた人に「なおりたいのか」と尋ねることは、滑稽であり、不謹 慎でさえあるのではないでしょうか。しかし、実は主イエスのこの問いかけこそ、彼 の魂の核心に触れる根本問題であったのです。この人の急所をつく御質問であったの です。  彼は38年間、癒されることのない絶望に打ちひしがれていた病人です。「憐れみの 家」とは名ばかりの地獄絵図の中に、虚しく横たわっていた人です。そこには適者生 存・弱肉強食の原理だけが支配していました。もちろん38年ものあいだ、なにもし なかったわけではないでしょう。なんとかして癒されたいと、努力はしたに違いない のです。しかし、彼の努力と祈りと願いはことごとく水泡に帰しました。ここに至っ て「自分はもう、ここで孤独な死を迎えるだけだ。自分はもう癒されるはずはなく、 誰も自分を救ってはくれない」そういう絶望と諦めが、彼の全身を浸していたはずな のです。  人は、全ての希望が裏切られたとき、絶望の中にさえ安住の地を見出そうとします。 絶望にさえ自分を委ねはじめるのです。それこそドストエフスキーが語るように「人 間は絶望にさえ寄り添う存在」なのです。人生の境遇に対する諦めと呪い、社会と人 間に対する不信と嫌悪は、ますますこの人を、生ける屍のようにしていたのです。「主 よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりか けると、ほかの人が先に降りて行くのです」と、彼は主に申しました。この「わたし がはいりかけると」とは「わたしがはいろうとする意志を示すと」という意味です。 癒されたいという願いが、意志が、誰にも受け止められず、裏切られ続けてきた結果、 もはや彼には、死ぬこと以外に、何の希望もなくなっていたのです。  いや、正確に言うなら、彼も形式的には、水が動くのを待っているのです。いちお う意志を示しはするのです。しかしそれは虚しい意思表示にすぎません。自分には少 しも救いの望みがないことを、彼は暗黙の了解として、すでに受け取ってしまってい るのです。主イエスが厳しくお問いになるのは、まさにその点なのです。あなたは「な おりたいのか」と、主ははっきりとお問いになるのです。あなたがいま持っているそ の願いは、単なるジェスチュアだけなのか、それとも真剣に心から「なおりたい」と 願っているのか。それをいま、ここで明らかにしなさいと、主は仰せになるのです。 この点での曖昧さを、お許しにならないのです。  「なおりたいのか」。この主イエスの問いかけは、実は、ここに集う私たち一人びと りにも、問われていることではないでしょうか。人生のあらゆる試練や悩み、悲しみ や重荷の中で、私たちこそいつでも、絶望のうちに安住して、いつしか「それで良い のだ」と自分の寝床に安住してしまうのではないでしょうか。そのような私たちを、 そこでこそ立ち上がらせる生命の御言葉を、主はいま私たちに告げていて下さるので す。私たちこそ、この五つの回廊の中にいる病人なのです。罪という名の不治の病に 冒されているのです。だからこそ主は、私たちが絶望という名の寝床に安住すること をお許しになりません。そのような私たちの絶望を崩しておしまいになります。それ が「なおりたいのか」という御言葉なのです。 主はお問いになるのです。「あなたは、本当に癒されたいと願うのか。ごまかしでは なく、真剣に心から救いを願うのか」と…。絶望に身を委ねるのではなく、絶望とい う名の自分の寝床から起き上がって、主と共に歩む新しい喜びの人生に、私たちはい ま招かれているのです。主の御言葉によって打ち砕いて戴き、父なる神の御招きに身 も魂も委ねて歩む、その祈りと志の有るや無しやを、主は問いたもうのです。主はこ こに、この人の、否、私たちの信仰を問うておられるのです。  まさに、そのようなお方として、主イエスは、彼に命じて言われます。「起きて、あ なたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と。なんと驚くべき御言葉でありましょう か。主はここで、彼の訴えとは無関係なことを命じているように見えます。主が語ら れたことは、「私があなたを池に入れてあげよう」でもなければ「あなたの病気をなお してあげよう」でもありません。そうではなく「起きなさい」「床を取りあげなさい」 「歩きなさい」という3つのことです。「起きなさい」とは、主イエスを信じて立ち上 がることです。「床を取りあげなさい」とは、自分を縛りつけていた絶望を担う者とな ることです。「歩きなさい」とは、主イエスと共に生きる新しい人生です。この人は、 否、私たちは、主のこの御言葉に従うために、まず主イエスをキリスト(救い主)と 信じなければなりません。  つまり、この人は(私たちは)ここに、主イエスがなさる何かを期待する生活では なく、まず主イエス御自身と、主の御言葉を信じる生活へと招かれているのです。こ れは、キリストを信ずる信仰への招きであり、キリストと共に生きる新しい人生への 招きです。単なる肉体の癒しなどではないのです。たとえどんなに健康が与えられて も、神から離れている罪の状態が癒されなければ、そこに本当の人間の幸いと自由は ありません。たとえ病気が癒されたとしても、やがて新しい別の病気が、その人を捕 えるだけなのです。何よりも、やがて死ぬべき人間の現実は、何一つ変わらないので す。  しかし、主イエス・キリストを信ずるとき、私たちは、恐ろしい絶望の支配の中か らさえ@「立ち上がって」A「床を取りあげ」B「(主イエスと共に)歩む」ことがで きるのです。キリストを信じるとき、私たちは、今まで自分を縛り付けていた床、す なわち罪の支配を「取りあげて歩む」者とならせて戴けるのです。罪に打ち勝って下 さったキリストの勝利に連なる者とされるのです。それが、今朝の御言葉に現されて いる、人間のまことの救いなのです。私たちの負いきれない重荷、私たちの癒されえ ない痛み、私たちの絶望的な病に、主イエスの御手が触れて下さるとき、私たちはそ こで「立ち上がり」「床を取りあげ」「主と共に歩む」者とされるのです。弱肉強食の 競争原理を厭いつつ、なおそこでしか生きえなかった私たちの悲惨な現実に、神の憐 れみが触れて下さるのです。そして、そのゆえに、私たちはもはや絶望することなく、 そこで喜んで生きることができるのです。本当の「ベテスダ」(憐れみの家)がそこに 現れたからです。それこそキリストの御身体なる教会なのです。私たちはそこに連な らしめられているのです。  今日から私たちは「受難週」の歩みに入ります。主が私たちのために十字架を担わ れ、御自身の全てを罪の贖いとして献げ尽くして下さった、その恵みを心に深く刻み つつ、祈りを深めて礼拝中心の生活に励むときです。私たちは十字架の主イエス・キ リストによって、すでにいっさいの罪と死の支配から贖い出され、神の民とされた者 たちなのです。キリストの下さる新しい復活の生命に立ち上がらせて戴き、キリスト と共に歩む者とされたのです。まさにその私たちの喜びと新しい生活が、今朝の御言 葉に現わされているのです。いまこの人に、否、私たち一人びとりに、あなたは、あ なたの罪を贖って下さった、神の御子、イエス・キリストを信じますか、と問われて いるのです。  今朝の御言葉の最後の9節には「すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげ て歩いて行った」と記されています。罪の絶望に蝕まれ、疲れ果て、縛り付けられて いた人間に、私たちに、主イエスは「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きな さい」と命じられました。そこに、私たちのために十字架におかかりになり、生命を 献げて下さった、主の救いの御業が現れます。それまで、彼の、否、私たちの全存在 を縛りつけ、不自由にしていた床…私たちが憎みつつも、なお安住していた床を、こ れからは「取り上げて、歩く」者へと変えられてゆくのです。そこに、人間の本当の 救いがあります。そこに、唯一の真の癒しがあるのです。  主が与えて下さる本当の癒しは、つかの間の安心などではなく、生涯にわたって変 わることのない、永遠に続く平安と、復活の生命を私たちに与えるものです。それが 本当の癒しなのです。人間の本当の癒しは、キリストによる罪からの救いのもとにし かありません。罪を温存し、神の愛から離れたままで、どんなに健康であろうとも、 私たちは虚しいのです。主イエスがなさる本当の癒しは、望みなき所にこそ、生きて 働く癒しであり、それこそ私たちのただ中にいま行われている奇跡なのです。絶望の 中から私たちを立ち上がらせ、主と共に歩む新しい人生へと招くところの「癒しの奇 跡」なのです。まさにそのような真の癒しを、私たちは神の御子イエス・キリストに よって戴いているのです。