説   教 エゼキエル書18章30〜32節 ヨハネ福音書章4章43〜54節

「神の言葉による新たな生命」 

2008・03・09(説教08101209)  今朝の御言葉は、一見、矛盾する言葉によって始まっています。ヨハネ福音書4章 43節と44節の御言葉です。「ふつかの後に、イエスはここを去ってガリラヤへ行かれ た。イエスはみずからはっきり『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』と言わ れたのである」。  これは、主イエスが故郷(ガリラヤ)に来られた時の御言葉であって、立ち去ると きの御言葉ではありません。本来ならば「預言者は自分の故郷では敬わないものだ」 とは、主イエスを信じない故郷の人々への決別の言葉のはずです。しかし主イエスは それを、故郷(ガリラヤ)に来られたときに語られたのです。つまり主イエスは、故 郷の人々の不信仰にもかかわらず、その人々の中に来て下さったのです。そこを立ち 去られたのではないのです。  そもそも43節の冒頭に「ふつかの後」とありますが、二日間、主イエスはどこに おられたのでしょうか。それは、エルサレムとガリラヤの中間にあったサマリヤの地 です。そこで、あのスカルの井戸のかたわらにおける一人の女性との「活ける水」を めぐる対話がありました。そしてサマリヤの人々はみな主イエスを信じたのです。し かも主がなさった「しるしや奇跡」によってではなく、ただ主が語られた神の言葉に よって、イエスをキリスト(救い主)と信じる者になったのです。  そのことは、4章42節に、スカルの町の人々がこの女性に語った言葉によってわか ります。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自 身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。 彼らは、ただ御言葉によって「イエスは主なり」と信ずる者になったのです。これが、 とても大切なことです。  今朝の46節に記された「ガリラヤのカナ」という地名は、同じヨハネ伝の2章1 節以下“カナの婚礼”の記事にも登場してきます。そこで主イエスは、水をぶどう酒 に変えるという最初の奇跡を現わされました。しかし「イエスは主なり」と信じた故 郷(ガリラヤ)の人は本当に僅かでした。むしろ大多数の人たちは主を信ずることな く、ただぶどう酒を飲み、肉体を養う糧のみに満足して、主のもとから立ち去って行 ったのです。  ところが、神の救いの約束から最も遠かったはずのサマリヤの人々は、主イエスが なさる「しるしや奇跡」をも見なかったにもかかわらず、イエスをキリストと信じた のでした。ただ神の言葉を聴いて信じてることにより「イエスは主なり」と告白する 者になったのです。肉体を養う水ではなく、主の御言葉という「活ける水」を求める 者になったのです。スカルの町こぞって、神を信じる民(キリストの教会)となった のです。ここに、故郷ガリラヤの人々と異邦サマリヤの人々との決定的な違いがあり ました。主イエスの故郷のガリラヤの人々のほうが、異邦サマリヤの人々よりも不信 仰だったのです。主イエスから最も遠かったはずのサマリヤの人々が、率先して「イ エスは主なり」と信ずる者になったのです。  このことは、何を意味しているのでしょうか。それは、私たちは御言葉(福音)を ほかにして、主イエスを信じ、主イエスと共に生きることはできない、ということで す。神の御言葉を聴いて信ずることを抜きにして「自分はキリストと共にいる」と思 うのは間違いだということです。たとえば「わたしは昔ミッションスクールで聖書を 学びました」という人がいます。しかし、過去どんなに熱心に聖書を学んだとしても、 いま現在、キリストを信じて教会に連なっていないなら、その学びは単なる過去の遺 物であって、生命の無いものなのです。  私たちは、過去の学びや経験で福音に生きるのではありません。それはちょうど、 神の言葉を聴くことではなく、血縁だという理由で自分をキリストに近いと思ったガ リラヤ人に似ています。学校に卒業はあっても、キリストに従う歩みに卒業はありま せん。卒業した(教会生活が不要だ)と思うのは、活ける福音の御言葉から離れたま までいることです。キリストと共に歩むとき、私たちは「もうこれで十分だ」などと は思いません。ただひたすらに、どこまでも、主の御跡に従ってゆくだけです。それ が信仰者の歩みなのです。  さて、今朝の御言葉の46節以下に、驚くべき出来事が記されています。まさに不 信仰だけが支配するようなガリラヤのカナで、同じガリラヤのカペナウムに住む一人 の男性が主イエスのもとにやって来て、死にかかっている自分の息子をどうか癒して 戴きたいとしきりに主に願ったのです。この男性は46節に「ある役人」とあります が、ほかの福音書を見ますと、ローマの「百卒長」であったことがわかります。百卒 長と言うのは、ユダヤに駐留している宗主国ローマの軍隊の士官です。愛国心に満ち たユダヤの人々からは、蛇蠍のごとく嫌われていた存在です。救いから最も遠いと思 われていた人間です。その百卒長の男性が、主イエスを訪ねて、自分の愛する息子の 癒しを願ったのです。  どうぞ48節をご覧下さい。「そこで、イエスは彼に言われた、『あなたがたは、し るしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう』」。ずいぶん厳しい御言葉です。 普通ならば、そこで引き下がってしまうところです。「分かりました、私が来たのは間 違いでした。どうぞ失礼をお許し下さい」と言って、主のもとから立ち去るのが普通 でしょう。ところが、この百卒長は諦めなかったのです。「あなたがたは、決して信じ ないだろう」と突き放された、まさにその主の御言葉の前に、必死で食い下がるので す。「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」と願うのです。  主イエスがご指摘になったように、百卒長の信仰は最初は「しるしと奇跡」を求め る信仰にすぎませんでした。彼はキリストご自身ではなく、キリストがなさる「しる しと奇跡」を期待する者に過ぎなかったのです。それで良いのかと、主は真正面から 問われるのです。それが48節の御言葉です。あなたの信仰は過去のもの(卒業した もの)であって良いのかと主は言われるのです。「しるしと奇跡」を見たから信じよう という態度は、つまり、それを期待する自分に拠り頼み、自分を信じようとすること です。その信仰は心の状態の熱心さであって、神の言葉を聴く従順ではありません。 それは「もしあなたが神の子であるなら、これらの石をパンに変えてみよ」と語った 悪魔の信仰と同じです。これに対して主ははっきりと言われるのです。救いはあなた 自身にあるのではなく、神にのみあるのではないか。それならば、あなたはどうして 神に全てを委ねようとしないのか。主がこの百卒長に問うておられるのは、まさにそ のことなのです。  この百卒長は、主イエスのもとに来て、息子の病気を「なおしていただきたい」と 必死に願いました。しかし「なおす」というのは、元からあった肉体の生命を回復す ることにすぎません。死に打ち勝つ永遠の生命を求めることではないのです。つまり この百卒長は、自分の判断で「これが救いだ」というイメージを作り上げていて、そ のイメージに合った救いを、主イエスに期待していただけなのです。主イエスに求め ているようでいて、実は自分の中に「救い」を作り出していたのです。その罪を主は 指摘されたのです。「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだ ろう」とは、そういう御言葉なのです。  この御言葉の前に、百卒長ははじめて自分の間違いに気づきます。そして改めて主 に願うのです。自分が作り上げていた救いのイメージではなく、まさに主イエス・キ リストのみが与えて下さる唯一の救い(キリストの主権)に、自らと自らの愛する息 子とを委ねるのです。神の言葉を聴いて信ずる者とされるのです。その信仰において こそ、百卒長は申します。「主よ、私には、残された時間がないのです。息子はまさに 死なんとしています。どうか、私の家においで下さい。あなたがいらして下さるなら、 かならず息子は救われます。あなたがいらして下さらなければ、息子は滅びるのです。 だから主よ、どうかいらして下さい」と、心を尽くして、必死になって願うのです。  交通機関も、通信手段も、何もなかった時代です。この百卒長にしてみれば、主イ エスに会うために息子のもとを離れること自体が大変な冒険でした。カペナウムから カナまでは半日もかかる距離です。私たちはこの百卒長が、病気の息子から丸一日離 れてまでも主イエスのもとに来た決意に心打たれます。しかし人間の意志や決意が罪 からの救いになるのではありません。救いはただ、神の御子イエス・キリストにある のです。いまやそのことを知る者として、この百卒長ははじめて「しるしや奇跡」で はなく、御言葉を聴いて生きる者へと変えられてゆくのです。  今朝の御言葉の50節が私たちの魂を打ちます。「お帰りなさい。あなたのむすこは 助かるのだ」と主イエスは言われた。そのとき、彼はただその御言葉だけを携えて、 病気の息子と家族の待つ家へと帰ってゆくのです。そこには、主イエスが肉体をもっ て共におられたわけではありません。ただ主が与えて下さった神の言葉だけがありま した。しかし、それだけを聴いて、それだけを携えて、それだけを信じて、家に帰っ てゆく彼のもとに、家から来た「僕たち」が出会います。その僕たちが「その子が助 かったことを告げた」のです。その助かった時刻は、まさしく主イエスが「あなたの むすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻「きのうの午後一時」でありました。  ここにいったい、何が起こったのでしょうか。神の言葉が宣べ伝えられ、それが真 実に聴かれるとき、そこに、人間の本当の「救い」が起こるということです。「人間の 歴史は死の流れの中にある」と語った人がいます。そのとおりでありましょう。全て の人間に共通し、一人の例外もないこと、それは「彼もまた、やがて死に、葬られる」 という事実です。いや、それ以上に「人間の歴史は罪の流れの中に」あります。人類 史は罪の発展史です。死が全ての人間に必然である以上に、罪の支配は全人類の歩み に必然であり、私たちの人生に暗い影を投げかけます。その支配に逆らいうる者は一 人いません。今日の世界は、私たち人間の罪と、その罪の結果である混乱の中で病み 衰えています。人間を支配する最も恐ろしい病気こそ、罪であると言わねばならない のです。  しかしまさに、この罪の流れの歴史のただ中に(故郷の人々の不信仰のただ中に) 主イエス・キリストは来て下さいました。誰も逆らうことのできなかった罪の支配を、 主は十字架において打ち滅ぼして下さり、みずから墓に葬られて、甦って下さいまし た。主の十字架と復活によって、罪と死の支配に対して永遠に終止符が打たれたので す。十字架と復活の主の愛と恵みのもとでこそ、罪と死の支配は終わりを告げ、新生 への逆転が始まるのです。死の流れを食い止めて、永遠の生命へと引き戻して下さる お方が、いまも、のちも、いつまでも、私たちと共にいて下さるのです。  まさに、そのようなキリスト(救い主)を信じ、告白する者へと、この百卒長は変 えられてゆました。神の言葉を聴いて信じ、新たな生命を戴く者とされたのです。そ の事実が、今朝の御言葉の最後の53節にはっきりと現れています。「彼自身もその家 族一同も信じた」とあることです。私たちは、複雑かつ多様化する社会の中で何を求 めているのでしょうか。なにを最も大切なこととして、次の世代に受け渡してゆくの でしょうか。もし、肉体の健康と癒し(また富と成功)だけが人生の最大目的である のなら、この世界の救いは、スポーツクラブと病院と銀行にあることになります。そ うではなく、人生を人生たらしるめる祝福の生命は、ただキリストのもとにのみある のです。私たちのために、そのすべての罪を担って贖いとなって下さったキリストの もとに…。 今日、スポーツクラブや病院や銀行は賑わい、教会に来る人は少ないのです。言い 換えるなら「しるしや奇跡」を求める人は多くても、神の言葉を聴いて信じる人は少 ないのです。しかし、主イエスは全てを見ておいでになります。主の御まなざしには、 私たちが全て「養う者のない羊の群れのような」寄る辺なき滅びに瀕した存在である ことが明らかに見えています。そこでこそ、主は私たちに本当に必要な、祝福の生命 を、福音の真実をもって、私たちのもとに来て下さるのです。私たちをあるがままに みもとに招き、神の言葉による新たな生命へと、私たちを入らしめて下さるのです。  「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」。この御言葉ほど、今日の世界をあら わしたものはないでしょう。神が永遠の目的をもって創造された世界にある私たちが、 その神から遣わされた御子イエス・キリストを信じることなく、御言葉を聴こうとも しない現実がそこかしこにあるのです。しかし私たちはその現実の中でこそ、その現 実の中に来て下さった主に向かって「主よ、どうぞ、子供が死なないうちに来て下さ い」と願い求める者とされています。故郷では敬われることのない主を、私たちは信 仰によって敬う僕とされているのです。 まことの預言者、神の御言葉そのものであられる主イエスを、地上の故郷は敬いま せんでした。しかし、主が御自分の生命を注いで建てて下さった、霊の故郷であるこ の教会に私たちは招き入れられ、主に讃美と栄光を帰する者とされています。ここに 連なる私たちは、神の言葉による新たな生命に豊かに与り、主を敬い、讃美し、その 救いの御力を全世界に宣べ伝える僕とされているのです。  教会は、この世界にまことの生命を与えるために、主がお建て下さった救いの砦で す。新しい創造の御業の拠点です。主は「預言者は自分の故郷では敬われない」と言 われて、故郷を去られたのではなかった。まさに、主を敬わない罪の支配に満ちたこ の世界のただ中に、その罪と死の極みの中に、まっしぐらに来て下さったおかたなの です。そこでこそ、私たち全ての者の罪を担われて、十字架にかかって下さったおか たなのです。私たちを救うために、自ら罪の支配のどん底にまで降って下さったので す。私たちの身代わりとなって罪を負われ、死んで、葬られ、そして、私たちを死に 打ち勝つ復活の生命で覆って下さるために、甦りの初穂となって下さったのです。こ のかたを、主イエス・キリストを、私たちは信じ、永遠の救い主と告白する僕たちで す。  私たちは、いつ、いかなる時にも、このかたを通して神の言葉を聴きつつ生きるの です。御言葉が語られるところ、そこに、私たちの起死回生の喜びが起こるのです。 決して立ち上がりえなかった者が、立ち上がり、歌いえなかった者が、隣人に救いの 歌声をもたらし、絶望と孤独の淵にあった者が、キリストの限りない愛の内に生かさ れて、キリストと共に歩む、新しい人生を歩ましめられてゆく。実に、ここに連なる 私たち一人びとりに、そして、まだ主を知らない全ての人々のもとにも、主は来て下 さったのです。あなたの救い主(キリスト)として…。