説    教    ヨブ記42章1〜6節   ヨハネ福音書4章39〜42節

「主より親しく聴きて」

2008・03・01(説教08091208)  「さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、『この人は、わたしのしたことを何も かも言いあてた』とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた」。これが、今朝、 私たちに与えられた御言葉の冒頭、ヨハネ伝・第4章39節の福音です。  まことに驚くべきことが、ここに告げられています。「罪の女」とレッテルを貼られ、 スカルの町の人々から軽蔑され、退けられていた女性が、その町の人々に、キリスト を「あかし」する言葉を語る者とされ、多くの人々が彼女の言葉によって「イエスを 信じ」る者になったというのです。  彼女がスカルの人々に語った「あかし」の言葉は、御世辞にも整ったものではあり ませんでした。彼女は「この人は(主イエスは)わたしのしたことを何もかも言いあ てた」と語っただけなのです。それ以上のことを語ってはいないのです。正直で稚拙 な言葉にすぎません。もしこれを、彼女の「説教」と受け取るならば、説教の言葉と しては落第点かもしれません。  ところが、彼女のこの正直で拙い言葉(説教)が、スカルの人々の心を捕らえるの です。同じヨハネ伝4章29節にも、彼女は同じ言葉で人々にキリストを語っていま す。「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんな さい。もしかしたら、この人がキリストかもしれません」。そして30節には「人々は 町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った」と記されているのです。  そこで、今朝の39節以下の御言葉は、この30節の御言葉の続きです。この福音書 を書いたヨハネは、主イエスと弟子たちとのやりとりを31節から38節までに記した のち、ふたたび今朝の39節以下で、スカルの町の人々にスポットを当てています。 そこに起こった、驚くべき神の御業を告げているのです。それは、主なる神が彼女の 拙い言葉をお用いになって、スカルの町の人々を、キリストのもとへと導いて下さっ たという出来事です。  それだけではありません。さらに、今朝の御言葉の40節以下を読みますと「そこ で、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきた いと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。そしてなお多くの人々が、イエ スの言葉を聞いて信じた」と告げられているのです。  彼女が語った「あかし」の言葉は、ただ言葉だけに終わりませんでした。彼女の言 葉によってキリストへと導かれた人々が、さらにキリスト御自身の御言葉をとおして、 親しく福音の真理に接し、キリストを信じるという新しい救いの出来事が、ここには 起こっているのです。「なお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」とは、そう いう出来事を示しています。おそらく、スカルの町こぞって、主イエス・キリストに よる罪の贖いと、復活の生命の恵みに連なるものとされてたのではないでしょうか。 御言葉による救いが連鎖反応を生み出し、さらに多くの人々を救いに導いていったの です。  私たち葉山教会は、伝道開始以来85年を迎えます。その創設期にあって忘れるこ とのできない信仰の指導者の一人は、植村正久牧師です。旧日本基督教会の先達であ り、宮崎豊文先生の恩師にあたるかたです。この植村正久牧師は、1872年(明治5 年)に洗礼を受け、日本最初の神学校であり、今日の東京神学大学の前身である築地 神学校(ブラウン・セミナリー)の第一期生として学びました。6年間の修業年限を 経て、最後の卒業試験の中心は、説教の試験でした。ところが、その大切な説教の試 験に、なんと植村先生は落第をしてしまうのです。正確に申しますと、落第しそうに なったのです  それは、植村先生は生来訥弁の人であり、人前で語ることがあまり上手ではなかっ たらしい。それで、説教に厳しいヘボン宣教師が「君の説教はまことに拙い。これで は卒業させるわけにはゆかない」と言ったそうです。そこに助け舟が出ました。級友 の一人で、のちに明治学院の院長となった山本秀煌がヘボンにいわく「ヘボン先生、 植村君は話はたしかに下手ですが、誰よりも伝道が好きです。説教することが好きな のです」。そう言って、懸命に執成してくれたおかげで、植村牧師は無事に伝道者とし ての第一歩を踏み出すことができたのです。  植村正久牧師が、生涯にわたって、どんなに優れた説教者であり、牧会者であった かを思いますとき、これはまことに不思議なエピソードです。やはり私たち人間は、 神の御言葉の説教の本質というものがなかなか分からない、ということではないでし ょうか。植村牧師はたしかに訥弁であったようです。説教の最中にも突然、数十秒間、 場合によっては一分以上もの沈黙が流れることがあったそうです。しかしその沈黙は、 会衆が、その次に出てくる生命の言葉を、それこそ息詰まるような緊張感の中で待つ、 という性質の沈黙でした。いかなる雄弁よりも力ある沈黙であったのです。  のちに、植村牧師ご自身が明治32年の福音新報に書かれた「説教者の心構え」と いう文章があります。「クロムウェルの時代に当たり、名高き英国の牧師リチャード・ バクスターは、有力なる説教者にて聴衆を深く感動せしむるの勢いまた非常なりし人 なり。彼の講壇に上るや全身の能力と同情とをことごとく注ぎ出だし、自ら燃ゆるば かりの熱心に成りて、しこうして後に聴衆をも燃ゆるばかりの熱心と成らしめんこと を願えりという。彼自ら己が説教の状態とその目的とを、真摯に歌いて曰く、『我は決 して再び説教する能わざるがごとく、また死に瀕する者の死に瀕する者に語るがごと く説教せり』と。今日の教会において甚だ嘆かわしく思わるるは、講壇の調子の衰え たることなり。美わしき説教や面白き説教はこれあらん。されど真に人の心奥に迫り て悔改を促し、そのうなだれたる霊魂を励まし、憂え悲しめる者に限りなき慰藉を与 うる力あるものは稀なり。その原因は要するに説教者自ら熱するところなく、ことに 主張せんとする思想を懐かず、深く罪悪と戦いてこれを悔改するの経験乏しく、キリ ストの恩寵に生活するの味わいを知らざる者多きに在りと言わざるべからず。この時 に当たりてバクスターの講壇に立てる心構えを聞く、また大いに今日の説教者を戒む るものなしとせんや」。  これは百年後の今日なお、襟を正して聴くべき言葉であると私は思います。そして、 今朝の御言葉に登場するこのサマリヤの女性の告げた言葉が、スカルの人々の魂をキ リストへと導いた理由は、まさに植村牧師が言われるように、それが「美わしき説教 や面白き説教」ではなくして、「真に人の心奥に迫りて悔改を促し、そのうなだれたる 霊魂を励まし、憂え悲しめる者に限りなき慰藉を与うる力あるもの」として、主に用 いられたからではなかったでしょうか。まさに彼女は、バクスターの言う「我は決し て再び説教する能ざるがごとく、また死に瀕する者の死に瀕する者に語るがごとく説 教せり」という姿勢を、キリストの恵みによって、神の御前に持たしめられた器であ ったと思うのです。  人々を理屈で納得させたり、知恵や巧みな言葉でキリストへと導く力は、彼女には ありませんでした。彼女は、この世が尊ぶものを何ひとつ持たない、名もなき異邦の 女性に過ぎませんでした。彼女にあるものは、ただ主イエス・キリストとの出会いを、 またキリストによって罪から救われた喜びの事実を、いかにしても一人でも多くの人 に宣べ伝えんとする信仰の志だけでした。ただその信仰の志だけが、このように豊か に主によって用いられ、主の御栄えを現すにいたったのです。  そしてここには、私たち現代のキリスト者が見失っている大きな祝福があるのでは ないでしょうか。それは、私たちが神の祝福の器とされるのは、決して自分の力や知 恵によってではない。それはただ神の御言葉の真実によってである、という事実です。 御言葉に支えられ、生かされる者のみが持つ祝福の生活です。  この祝福を私たちは、今朝の御言葉の続く42節から改めて聴き取ることを許され ています。「彼らは女に言った、『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれ たからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であること が、わかったからである』」。  スカルの町の人々は彼女に言うのです、自分たちがキリストを信じ「イエスは主な り」と告白するのは、もはやあなたの言葉によってではない。そうではなく、自分た ちみずからが親しく主イエスから御言葉を聴き、その御言葉によって「この人こそま ことに世の救主であることが、わかったからである」と言うのです。  つまり、スカルの町の人々は、最初は、この女性が語る不思議な言葉の前に立って いた。彼らの心は彼女のほうに向いていたのです。ところが、今はそうではないので す。いまはこの女性と共に、主イエスの御言葉の前に立っている。主イエスのほうに 向いているのです。語る者も聴く者も共に、主イエスの主権を仰いでいるのです。こ れはまことに大切なことです。この出来事が起こらなければ、決して本当の教会は建 てられてゆかないからです。また、私たちの生活は、本当の幸いを告げる生活にはな らないのです。  使徒パウロは、ローマ書10章14節に「しかし、信じたことのない者を、どうして 呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。 宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、ど うして宣べ伝えることがあろうか」と語っています。そして「ああ麗しいかな、良き おとずれを告げる者の足は」と、イザヤ書の52章7節の御言葉を引用しました。し かし、まさにその、御言葉に仕えることと、御言葉を聴くことという、二つの出来事 の中で、パウロがしかと見据えているたった一つの恵みの事実がある。それこそ「主 の御名を呼び求める者は、すべて救われる」という福音の力なのです。まさにその福 音の絶大な力の根拠として、パウロは同じローマ書10章20節に「わたしは、わたし を求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」という、イ ザヤ書65章1節の御言葉を引用するのです。罪によって、神から最も遠く離れてい た私たち、救いの望みの全くなかった私たちを、神は御子イエス・キリストによって、 尋ね、見出し、その罪を贖い、教会に連なる者として下さったのです。  まず、私たちみずからが、この福音の絶大な力(神の御言葉の真実)に生かされる 者とならずして、どうして主イエス・キリストにある救いの喜びを、隣人に告げるこ とができるでしょう。私たちの信仰が、神の御言葉に基づくものでなくして、どうし て本当の人間の生活ができるでしょう。私たちはしばしば、この最も大切な、御言葉 に根ざす生活の祝福と幸い失い、自分自身に拠り頼むだけの者になってしまうのです。 口先では「主を信じている」と言いながら、心の中では御言葉に叛く者になってしま うのです。キリストに従っているように装いながら、実は、世の中が尊ぶものだけを 尊んでいることがあるのです。そして、その道の行き着く先は、絶望と虚しさでしか ないのです。  「この私たちの人生に、この私たちの存在に、本当に意味があるのか」と問われて も、確かな答えがなに一つないのが私たちです。いま、世界中で最も将来に希望を持 てない子供は、日本の子供たちなのだそうです。子供たちが希望を持つことができな い国とは、どういう国なのでしょうか。そこに本当の「豊かさ」などあるのでしょう か。それは子供たちだけの問題ではありますまい。もし父母や祖父母であるはずの私 たちの世代が、人生にまつわる“究極的な虚しさ”という問いに明確な答えを持ちえ ないならば、子供たちは希望を失うだけなのです。そしてその“虚しさ”を打ち砕く 唯一の力は、ただ十字架と復活のキリストにあるのです。  健康だから、友人がたくさんいるから、家庭に恵まれているから、経済的に豊かだ から、仕事が順調だから、だから「人生は意味がある」のではないので。もしそれだ けならば、健康にも、友人にも、家庭にも、経済的にも恵まれず、仕事も順調でない 人は、語るべき“祝福”をなに一つ持ちえないことになります。また、今はそれらを 持っていると思っている人も、あのヨブのように、一夜にして奪い去られる現実があ るかもしれない。そのとき、私たちの人生に一体いかなる意味があるのか、誰も答え られないような社会が、どうして真の意味で豊かな社会と言えるでしょうか。  このスカルの女性には、世間の人々が誇るなにものもありませんでした。彼女を生 かしめたものは「なくてならぬ唯一の糧」でした。彼女が本当に求めていたもの、飢 え渇き尋ねてやまなかったものは、生ける神の御言葉による人生だったのです。キリ ストの福音(キリストの愛)に生かされる人生です。渇ききった彼女の魂を、キリス トによる罪の贖いという「活ける水」が潤したとき、彼女はそこに、永遠に変わるこ とのない本当の豊かさを、人生の究極的な意味を、見いだしたのです。それを彼女は、 全ての人々に「あかし」せずにはおれなかったのです。  それは、人間はあるがままに、何の値もなきままに、神によって愛され、受け入れ られているという事実です。神は、実にその独り子を賜わったほどに私たちを愛して 下さったという事実です。人はすべて神の前に大きな罪ある存在です。魂において死 に瀕した存在です。まさにそのような彼女の存在を、主イエスは、十字架の贖いの恵 みによって立ち上がらせて下さったのです。死んだ者に、復活の生命を与えて下さっ たのです。彼女の、そして全ての人の、測り知れない罪を贖うために、神の御子みず から、あの呪いの十字架にかかって下さったのです。  この救いの出来事を、キリストの内に見いだしたとき、彼女は存在の深みから新た にされ、祝福を物語る神の器とされてゆきました。拙い言葉、弱き力のあるがままに、 主に用いられて、神の祝福を携え、恵みを証しする者とされたのです。そして、ここ に連なる私たち全ての者にも、主は同じ恵みを与えて下さっています。拙い言葉、弱 い手足しか持ちえぬ私たちです。しかし、そのあるがままに、主は私たちを極みまで の十字架の愛をもって覆い囲んで下さり、死の淵から立ち上がらせて、いついかなる 時にも、復活の生命の幸いの内を、歩む者として下さるのです。  いま、そのキリストにある祝福と幸いを感謝しつつ、また、主が私たち全ての者の ために十字架を担われ、死んで、葬られたもうた恵みを覚えつつ、主を讃美し、主に 従う信仰の志を健やかになし、それぞれの生活の場において、御言葉に生きる信仰の 歩みを続けて参りたいと思います。