説    教    詩篇126篇1〜6節   ヨハネ福音書4章35〜38節

「目を上げて畑を見よ」

2008・02・24(説教08081207)  今年のイースターは3月23日(日)とまことに早く、これ以上に早いイースター礼拝 の日は存在しません。慌しくレント(受難節)の日々が過ぎようとしています。それ だけになおさら、いまこのレントの歩みの中で私たちに問われていることは、主の御 復活の光に照らされつつ歩む私たちの歩みが、十字架と復活のイエス・キリストの御 前に、どのようなものになっているのか、どこに向かって、何を目的として歩んでい るのか、ということです。それこそ「教会総会の準備に追われて、伝道・牧会の務め が疎かになった」という本末転倒があってはならないのです。教会の主の御前に、申 し開きの立たぬことがあってはならないのです。その意味で、私たちのまなざしが、 いま、どこに向かって注がれているのか。どなたに従う歩みになっているのか、それ こそが問われています。  今朝、私たちに与えられた、ヨハネ福音書・第4章35節以下の御言葉において、 主イエス・キリストは、こう仰せになっておられます。「あなたがたは、刈入れ時が来 るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたが たに言う。目をげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬 を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためであ る」。  「刈入れ時が来るまでには、まだ四か月ある」というのは、私たちが主に向かって 訴える“言い訳の言葉”です。私たちはいつも、主の御前にこのように言い開きをす るのです。「主よ、時は未だ熟していません」と言うのです。「収穫の時」すなわち「伝 道の時」は未だ熟していませんと言うのです。あたかも私たちは、ピリポ・カイザリ ヤにおけるあのペテロのように、主イエスの袖を引いて「主よ、あなたは先走りしす ぎています。収穫の時はまだ来ていないのに、どうして刈入れを急ごうとなさるので すか」と、主を戒めようとするのです。つまり、ここで私たちは、キリストの弟子で あることをやめて、キリストの主になろうとしているのです。  思えば、これと同じことが、私たちの生活にも、あるのではないでしょうか。私た ちは、理想の世界にではなく、現実の世界の中に生きています。そこには様々な厳し い出来事があり、自分の意に反する色々な経験を強いられます。しかも、そこに私た ちは何とかして自分の居場所を見出し、自分を生かそうと、必死になって働いていま す。「世の中を憂しうとましと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」と歌った万葉 の歌人がいました。万葉集の時代から今日に至るまで、人間にとってこの世は不如意 の連続です。フリーターと呼ばれる若者の多くは「やりたい仕事が見つからない」と 言うそうです。しかし考えてみれば「やりたい仕事」などはどこにもなく、私たちの 周囲には「やりたくない」仕事ばかりが、満ち満ちているのです。しかも私たちは、 それをなさねばなりません。それが“生活する”ということです。  そのような、理想と現実のはざまの“現実の生活”の中で、私たちは思うのです。「主 イエスよりも、自分のほうが世間を知っている」と。誇張でも何でもありません。実 際にそう思うことが、私たちにはあるのではないか。「主よ、あなたはそのように言わ れますが、現実にはそのようには行きません」と、主をたしなめるのです。「聖書には そう書いてあるけれども、現実はその通りにはならない」と、言い訳をするのです。 口に出すのは憚られますから、その思いは心の中に、キリストに対する不従順として 鬱積してゆきます。口先では主を信じるふりをしながら、実際には自分の経験や実績 を優先させているのです。つまり、私たちは現実のこの世界の中で、キリストの弟子 であることをやめて、キリストの主になろうとしている。「主イエスよ、現実はそう甘 くありませんよ」と、私たちこそペテロのように、主の袖を引っ張るようなことをし ているのです。  しかし、本当に、そうなのでしょうか。本当に「主イエスより自分のほうが世間を 知っている」のでしょうか。私たちがもしそう思うとすれば、それこそ御言葉に生き てはいないと言わざるをえません。むしろ私たちのほうこそ、バーチャル・リアリテ ィ(仮想現実)に生きているのです。私たちは「世界のまことの主はキリストではな い」という仮想現実に生きてしまっていることはないでしょうか。そのようにして、 実は私たちこそ、この現実の世界に健やかに生きる道を見失い、自分をも、また他者 をも、生かしえない者になっているのです。信仰生活と現実生活とを分離させてしま うとき、キリストぬきの仮想現実だけにみずからを委ねようとするとき、私たちはい とも簡単に、エペソ書の言う「神もなく、それゆえに、希望もない者」に、なってし まうのです。平安を失った生活に陥ってしまうのです。  世界のまことの主が「キリストではない」世界、それは、究極的に勝利するものは 罪と死である世界です。「罪よ、汝こそわがまことの主なり」と言わざるをえない世界 です。そのような世界こそ、実は本当の意味で最も虚しい「非現実的世界」そのもの ではないでしょうか。なぜなら、最終的に、罪と死のみが支配するところに、たとえ どのように私たちの営みが築かれたとしても、そこには何の意味もないからです。そ れこそ仮想現実にすぎないのです。  神は、そのような、希望なき世界をお造りになったのでしょうか。断じてそうでは ありません。主なる神はこの世界を、聖なる御心の成就する世界として、永遠のご計 画をもって創造されました。まさに、この現実世界のあらゆる矛盾と破れのただ中に、 主なる神は、御子イエス・キリストによって、決定的な勝利と祝福を告げていて下さ るのです。それはローマ書8章28節「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画 に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わ たしたちは知っている」と告げられている事柄です。それゆえ、同じローマ書8章31 節に、パウロはこのように語っています。「それでは、これらの事について、なんと言 おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかた が、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。また続いて8 章38節以下に、こうも語ります。「わたしは確信する。生も死も、天使も支配者も、 現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被 造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離 すことはできないのである」。  いま、ここに集うている私たちは、主なる神が、御子イエス・キリストによって、 罪と死の支配のもとから、贖い取って下さった者たちなのです。ここに、主の御復活 の御身体である教会が建てられ、そこに私たちが連なっている事実こそ、キリストの 絶大な勝利の恵みの最も確かな“しるし”です。ニーバーというアメリカの神学者は 「福音はあらゆる仮想現実からわれらを解放し、真の世界(リアリティ)へと向かわ しめる唯一のパスポートである」と語りました。十字架の主イエス・キリストこそ、 私たちの生活を、まさしく真の現実(リアリティ)たらしめる恵みなのです。主に結 ばれてこそ、私たちはあらゆる幻想を捨てて、現実へと勇気をもって立ち向かうこと ができます。キリスト者は「夢を見ている者」ではなく「夢から覚めた者」でありま す。「起きよ、夜は明けぬ」と告げ給える主の御声によって、虚しき栄華の影を追う生 活の中から、「主キリスト・イエスにおける神の愛」に歩む新しい生活へと、方向転換 をさせて戴いた者なのです。  それならば、なおのこと、いま私たちが、その唯一の主権者なるキリストの御声を、 正しく聴く者になっているかどうか。主の示し給う道に歩む生活をしているか否か。 それが幾度でも問われているはずです。「生や死」「天使や支配者」「その他どんな被 造物」にも遥かにまさる、キリストの贖いの恵みという永遠の現実に、堅くまなざし を注いで立つ者とされているのです。まさしく、いまその恵みの現実において、主イ エス・キリストは、弟子たちに、否、私たちに一人びとりに、親しく御声をかけてお いでになるのです。「目をあげて畑を見なさい」と。  あなたがたは、いったいどこを見て立っているのかと、キリストは仰せになります。 あなたがたは「刈入れまでには、まだ四か月ある」と語っているではないか。あなた がたはいつまで、自分自身の知恵や力にのみ、目を注いでいるのか。そうではなく、 生ける神の御言葉である福音にのみ、あなたの目を注ぎなさい。いま、その目をあげ て「畑を見なさい」と、そのように主は仰せになるのです。  この「目を上げる」という字は「凝視する」という意味の言葉です。先入観を捨て、 思いこみを捨て、おのれの義をかなぐり捨てて、十字架のキリストを仰いで立つ者と なり、そのことによって、大胆率直にこの現実の世界を見つめ直すことです。すると、 あなたにも見えるではないかと、主は言われるのです。それは、神がお造りになった この「畑」(世界)が「はや色づいて刈入れを待っている」事実す。世界は、また全て の人々は、罪からの赦しと贖いの福音を待ち続けているいるのです。あの、サマリヤ のスカルの女性がそうでした。彼女自身も知らぬうちに、彼女は心から、自分を本当 に潤す生命の水を求めていたのです。しかも、それがどこにあるかさえ知らなかった のです。主イエスに出会うまでは。主イエスとの出会いによって、またその御言葉に よって、彼女ははじめて、キリスト御自身がその「生ける水」であることを知ります。 彼女が主イエスを、彼女の全ての渇きを癒し、彼女を罪の支配から贖い出すために、 世に来られた方であることを信じ、告白したとき、彼女の魂は真の平安に満たされ、 主と共に歩んで行く新しい人生が、そこに始まっていったのです。  それゆえ、今朝の36節を見ますと「刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を 集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである」と、主は仰せになっておら れます。まさにこの世界は、そのような世界だと主は言われるのです。主は弟子たち に「収穫は多いが、働き人が少ない。だから収穫の主に願って、収穫のために、働き 人を送ってもらうようにしなさい」と言われました。それは「あなた(がた)自身が その働き人になりなさい」という意味です。なぜなら、収穫は莫大なものですが、そ のための働き人は、本当に少ないからです。見渡すかぎりの畑に、信じられないほど の大豊作。ところが、刈入れのための働き人はほんの僅かであるとは、これほど由々 しき事態はないのです。時は一刻を争うのです。  私はかつて、農学校で学んだことがあります。いちばん思い出に残っているのは、 麦や稲の収穫作業です。忙しさの中にも大きな喜びを経験しました。ところで、収穫 の時期というのは、日にちにすると僅か4〜5日しかないのです。それを逃してしま うと、稲も麦も質が落ちてしまいます。だから忙しいのです。短期間に刈り入れを済 ませねばなりません。私たちが収穫の時期を決めることはできないのです。それは神 がお決めになることです。そして私たちは急いでそれに従わねばなりません。それこ そ讃美歌の504番に「いざいざカラズ、時すぎぬまに」とあるとおりです。  ここに示されている事柄も、そうした限りない収穫の喜びの光景なのです。豊かに 実った広大な畑のあちらこちらから、刈入れのために召された働き人たちの、喜びの 歓声が上がるのです。勤しみ励む声がするのです。その報酬は、罪と死の支配から贖 われて、キリストに結ばれた者たちの「永遠の命」のさいわいです。そのさいわいと 祝福を、全ての人々と共に共有する喜びです。イエス・キリストによる、新しい復活 の生命です。そのさいわいと喜びに、全ての人々があずかる時が来たことを「まく者 も刈る者も、共々に喜ぶ」のです。今こそ、その“収穫の時”が来ているのです。だ から「目をあげて畑を見なさい」と主は求めたもうのです。その喜びに、あなたも共 に与る者とされているではないかと、主は言われるのです。  私たちの住むこの国、日本の伝道は、本当に難しいとよく言われます。そのとおり かもしれません。かつて読んだある本に、この地球上に、おそらく最も伝道の困難な 地域が二つある。一つはイスラム諸国であり、もう一つは日本であると書いてありま した。たしかに、わが国にキリスト教が宣べ伝えられていらい150年、キリスト者の 数は未だ人口の1パーセント未満という数字があります。遠藤周作は「沈黙」という 小説の中で、キリスト教にとっての日本の風土を湿地帯に譬えています。湿地帯だか ら、最初はキリスト教も根づくように見える。しかし、やがて根腐れを起こして枯れ てしまう。この小説に登場するイエズス会の宣教師が、ため息まじりに言う場面があ ります。主イエスは、種まきの譬えの中で、四つの土地について語られた。しかし、 主イエスでさえ知らなかったもう一つの土地がある。日本はまさにその土地、恐るべ き湿地帯なのだと言うのです。  こういう議論は数限りなくあるのです。その当否は別としても、私たちはそういう 議論を、たとえ百万回くりかえしたとしても意味がありません。なぜなら日本であろ うとなかろうと、どのような国や地域であっても、そこに人間が住んでいるかぎり、 そこには「御言葉を全身で拒む人間の罪の現実」があるからです。人間への伝道はい つも、常に最大の困難をともなうのです。湿地帯どころではないのです。主イエスは まさに、あのラザロの墓の前にお立ちになって、そこで「ラザロよ、出で来たれ」と 御声をかけられました。絶対に復活ということがありえない、死だけが支配する私た ちの現実のただ中に、果てしないその虚無の中に、御自身の生命を注ぎこんで下さっ たのです。まさに、その御業のために、主は、私たちの身代わりとなって、十字架に 死んで下さったのです。罪と死のみが支配する恐るべき荒地に、主はご自分の生命を お献げになったのです。  この事実に対して、私たちの「まなざし」がいま、どこに、どなたのもとに向かっ て注がれているのか、それだけがいま問われているのです。私たちはいつ、如何なる 時代、どのような境遇にあっても、御言葉(福音)に大胆に生きる僕とされているの です。キリストに従う生活の幸いと喜びと祝福を、全ての人々に告げ知らせる群れで あり続けねばなりません。主イエスはすでに、罪と死に対して決定的な、永遠の勝利 をおさめておられるのです。主の十字架によって、決して実りを得ない土地、罪の荒 野にすぎなかったこの世界が、今や莫大な収穫の時を迎えているのです。全ての人が 御言葉によって生命に甦る時を迎えているのです。いま「目をあげて」その救いの出 来事を見なさいと、主は仰せになるのです。私たちこそ、そのさいわいの事実の証人 なのです。主の働き人として、喜びの収穫のわざへと召されている者なのです。  今日から始まる私たちの、それぞれの務めの中で、十字架と復活の主が共にいて下 さいます。そのさいわいと喜びと祝福を、一人でも多くの人々と頒ち合いたいと思い ます。