説    教  詩篇78篇21〜25節 ヨハネ福音書4章31〜34節

「霊の糧に養わる」

2008・02・17(説教08071206)  今朝の御言葉、ヨハネ福音書4章31節以下から、私たちは、私たちをまことに 生かしめる“霊の糧”が何であるかを、はっきりと告げ示されているのです。場所 は、サマリヤのスカルの町はずれにある、ヤコブの井戸のかたわらでした。主イエ スの弟子たちがスカルの町に食物を買いに行っているあいだ、そこで一人の女性と 主イエスとの「活ける水」をめぐる対話が繰りひろげられました。その事情を知ら ずに戻って来た弟子たちが、さっそく主イエスに“肉の食物”を差し出し「先生、 召し上がってください」と申しますと、主イエスはそれに答えて「わたしには、あ なたがたの知らない食物がある」とおっしゃったのです。  このときの弟子たちの対応は、まことに、キリストの弟子たるに腑甲斐なきもの でした。彼らはこの主イエスの御言葉から、大切な福音の奥義を悟るべきでしたの に、かえって目配せして議論をはじめ「だれかが、何か食べるものを持ってきてさ しあげたのだろうか」と言うていたらくでした。このとき弟子たちの言う「だれか」 とは、おそらく、水瓶を置いたまま急いで町へと去っていったスカルの女性のこと だったでしょう。「あの女性が、自分たちの留守中に、先生に何か食物を持ってきた のだろうか」と思ったのです。  ようするに、このときの弟子たちには、完全に、肉体を養う“肉の食物”のこと しか眼中になかったのです。もちろん“肉の食物”も大切です。私ちの生活に無く てならぬものです。特に、弟子たちにしてみれば、ユダヤ人にとって異邦の地であ るサマリヤの町で、食物を調達するには思わぬ苦労があったかもしれません。主イ エスから労(ねぎら)いの言葉を期待していたはずです。それなのに主イエスは「わ たしには、あなたがたの知らない食物がある」と言われる。戸惑いを覚えて当然の 場面でした。主が何をおっしゃっておられるのか、弟子たちには理解できなかった のです。  そこで、戸惑っている弟子たちに主は、その御言葉の意味を説き明かして下さい ます。それが今朝の34節の御言葉です。「イエスは彼らに言われた、『わたしの食 物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂 げることである』」。  「わたしをつかわされたかた」とは、主イエスの父なる神のことです。主イエス は神の永遠の独り子、御父と本質を同じくし給うおかたです。それゆえ、主イエス がこの世界に来られたということは、永遠なる神が歴史の中に介入されたというこ とです。神聖にして無限なるおかたが、罪人にして有限なる私たちと、徹底的に連 帯して下さったことです。それはなにゆえでしょうか。私たちを罪から贖い、霊の 生命(復活の生命)を与え、神の国の民として下さるためです。私たち人間はすべ て誰一人の例外なく、神の御前に罪ある存在です。罪とは、単に道徳的な悪、道義 に反すること、法律にもとることばかりではありません。もしそれだけの意味であ れば「自分に罪はない」と言える人も皆無ではないでしょう。しかし聖書は「義人 はいない、一人もいない」と告げています。その意味は「犯罪者がいない」という ことではなく「神に義とされる人はいない」という意味です。たとえ人の前には正 しくありえても、神の御前に正しくありうる人は、一人もいないのです。  17世紀のフランスの思想家、ブレーズ・パスカルは、人間の罪の問題を深く考え た人です。パスカルによれば、実は「罪」ほど人間にとって分かりにくい事柄はな い。しかし、もし人間に罪なしとすれば、人間はいっそう不可解であると申してい ます。わが国の生んだ優れた哲学者・森有正もまた、国際社会において21世紀の 人類がもっとも真剣に取り組まねばならない問題、それは「罪の問題である」と述 べています。しかも、そのもっとも大切な問題が、もっとも軽んぜられているので はないかと問うのです。罪の問題ほど分かりにくいものはないからです。問題の深 刻さが巧妙に隠されているからです。  しかし、まさしく人間に罪があるからこそ、今日の世界はかくも深く病んでいる のではないでしょうか。新聞紙面に、人間の罪の結果が報告されない日は一日もあ りません。今日、新聞はまさに「罪の回覧板」の様相を呈し、しかもそれはものす ごい勢いで増加の一途をたどっています。主イエスのエルサレム入場の日、「ホサナ、 ホサナ」と、主イエスを歓呼して迎えた群衆が、わずか数日後に、主イエスを呪い 「十字架にかけよ」と絶叫するに至ったのです。それと全く同じ罪を、私たちもま た犯し続けているのです。西行法師の歌に「たそがれに往き来の人の影絶へて道は かどらぬ越の長浜」というものがあります。千年一日のごとく、遅々として進歩せ ず、孤独のうちに、黄昏へと向かって歩んでゆく人類の姿こそ、私たちの現実なの ではないでしょうか。そしてそれは「願わくは花の下にて春死なむ」という自然へ の回帰では決して解決できない、深刻な問題なのです。  罪とは、ひと言でいうならば、私たち人間が神の外に出たまま、しかも神の外に いることを自覚せぬままに、平然と生活しているという事実です。私たちはロケッ トで地球の表面からほんのわずか宇宙空間に出ただけで「宇宙に行った」と大言壮 語し、また、その宇宙船が地球に帰ってきただけで大騒ぎをします。しかし、宇宙 の創造主なる神から、全人類が離れてしまった罪に対しては、驚くほどに鈍感であ り、沈黙しているのは矛盾しているのです。罪に対してかくも鈍感な私たちを贖い、 救うために、神の御子イエス・キリストは、人となられて十字架への道を歩まれ、 私たち全ての者のために、生命を献げて下さったのです。  キリストの十字架とは、神の外に出てしまった私たちを救うために、神ご自身が、 神の外に出て下さった出来事なのです。私たちを神のもとに立ち返らせるために、 神ご自身が神ではないものになって下さった。永遠にして無限なるおかたが、罪人 にして有限なる私たちに連帯して下さったのです。イエス・キリストにおいて、永 遠が歴史の中に突入したのです。私たちの罪のどん底にまで、主はお降りになって、 私たち自身さえ窺い知れないほどの私たちの罪を、十字架の死によって打ち滅ぼし て下さったのです。いま私たちはレント(受難節)の日々を過ごしておりますが、 それは、主が全人類のために歩んで下さった十字架の道を心に刻むときです。主が 私たちのために負うて下さった、徹底的な自己犠牲を心に刻みつつ、祈りを深めて 礼拝中真の日々を送りたいと思うのです。  主はまさに、私たち罪人を極みまでも愛して、十字架への道をまっしぐらに歩ん で下さいました。そして主は、その御自分の十字架への歩みを、御自分が父なる神 から賜わったキリスト(救い主)としての歩みの全てを、今朝の御言葉において「わ たしの食物」と呼んで下さるのです。「わたしの食物というのは、わたしをつかわさ れたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」と語って下さる のです。私たちの救いのための徹底的な自己犠牲を「わたしの食物」と呼んで下さ るのです。 私たちは、自分を憎む者や呪う者のために、自分の大切なものを献げることはで きません。ましてや、自分の生命を献げるとことは絶対に不可能です。しかし主イ エスは、私たちに対する限りなき愛のゆえに、罪人のかしらでしかありえない私た ちの救いのため、御自分の全てを十字架において献げ尽くして下さったのです。永 遠なる神が、神にはありえない、呪われた罪人の死を、私たちに代わって死んで下 さったのです。その贖いの御業によって、私たちを罪の死の淵から立ち上がらせ、 復活の限りない生命をもって覆い包んで下さいました。義とはされえない私たちに、 御自分の永遠の義を与えて下さったのです。それが、聖書が全ての人に語っている イエス・キリストの恵みです。  それならば、私たちがキリストの御身体なるこの教会に連なることにより、日々 与らしめられている「霊の糧」(生命の糧)とは、十字架の主イエス・キリストその おかたにほかなりません。牧師はまさに、この「霊の糧」(生命の糧)を盛られた「土 の器」として、ただ十字架のキリストの福音のみを携えて、教会の群れの中に、そ して全ての人々へと、神によって遣わされてゆきます。そして、教会に連なる私た ちもまた、この「土の器」に神が委ねたもうた、キリストの福音という絶大な宝に、 この教会によって、全世界の主にある民と「共にあずかる」者とされているのです。 この「共にあずかる」という意味の言葉から、ギリシヤ語で“教会の交わり”をあ らわす“コイノニア”という言葉が生れました。教会とは、キリストの恵みに共に あずかることによって、全ての人々にキリストのみをさし示し、キリストの救いの 御業を宣べ伝える群れなのです。  だからこそ私たちは、今朝の御言葉を、さらに深く心にとどめざるをえません。 喜びと感謝をささげずにはおれません。主はいま弟子たちに、否、私たち一人びと りに語っていて下さるのです。「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」と。 主は、この食物は「あなたがたの知らない」ものだと言われました。この「知らな い」とは、言い換えれば「キリストのみが知っておられる」ということです。さら に言うなら「私たちは知らなくても良い」ということです。主が知っていて下さる という恵みにおいて、もう私たちは自由な者とされているのです。ただ主イエスの 御手に自分を委ねれば良いのです。主が私たちに「霊の糧」を豊かに与えて下さい ます。私たちは、私たちを本当に罪から救い、人間として健やかに生かしめるまこ との糧を、イエス・キリストをほかにして、世界のどこにも見出すことはできない のです。  これは、逆に言うならば、こういうことです。私たちは人間としては、本当に弱 く、脆く、欠けの多い「土の器」に過ぎません。しかしその私たちが主イエスの御 手に自分を委ね、キリストを信じ、「イエスは主なり」と告白して、教会に連なって 生きるとき、私たちは無条件に、なんの値もなきままに、この唯一の「霊の糧」に 与る者とされるのです。私たちの資格、条件、能力、業績は、なにひとつとして主 の御前で問われることはないのです。ただキリストを信ずる信仰のみが問われてい るのです。私たちのために生命を献げて下さった十字架のキリストを、全世界の主 にある民と共に、また、天にある贖われ、全うされた聖徒の群れと共に、わが救い 主、わが贖い主として告白する信仰です。この信仰において一つに結ばれ、堅固な 群れとなり、神の賜わるキリストの御糧に豊に与ってゆくときにのみ、私たちは、 ここに、このピスガ台に、まことのキリストの教会を、建ててゆくことができるの です。  この新しい礼拝堂が与えられて、早くも8年が経ちました。教会建築基金献金も この年度末で終了する恵みを与えられました。教会債の返済分の中からも、きっと 多くの献金が献げられることと信じ、願っています。この礼拝堂が与えられたのは、 ただこの十字架のキリストの恵みのもとに集い、キリストのみを証してゆく群れと して、私たちが堅く立つ群れとなるためです。内にありては「霊の糧」の交わりに あずかり、外に向かっては祝福を携えて遣わされてゆくためです。まさに、私たち はここで「(御自分を)つかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げ」 て下さった主が、私たちをも御業のために用いて下さり、私たちの内に始めて下さ った良きわざを、主の日までに完成して下さることを信ずるものです。そのような 確信のもとに立つ群れとして、主イエスの御糧に豊かに養われ、この礼拝の場所か らそれぞれの持ち場へと、戦いの場へと、主にある慰めと喜びの福音を携えつつ、 遣わされて参りたいと思います。