説  教   イザヤ書55章1〜5節  ヨハネ伝福音書4章27〜30節

「水瓶を捨てて」

2008・2・10(説教08061205)  「ここに女その水瓶を遺しおき、町にきて人々にいふ、『来りて見よ、わが 為しし事をことごとく我に告げし人を』」。  主イエス・キリストとの出会いによって、罪と死の支配の下からあがない 出され、「霊とまこと」とによる真の礼拝者とされた、このサマリヤの女性に とりまして、彼女の歩みは、受けた平安に安住するだけでは止まなかったの であります。  「霊とまこと」とによる「真の礼拝者」とされたということは、神の「霊」 である聖霊の導きのもと、キリストの救いの「真実」(キリストのまこと)に よって生きる者とされた、ということであります。今までは、暗い罪の力が、 彼女を虜にしていた。しかしこれからは、聖霊なる神と、キリストの救いの 真実とが、彼女の全存在を、死に至るまで、否、死を超えてまでも覆い囲む のであります。  まさに、この救いの力を知る者として、キリストと共に生きる喜びに躍り 上がる者として、この女性は、彼女みずからも予想だにしていなかった、新 しい歩みへと促されてゆきます。それは、スカルの町の人々に、キリストを 宣べ伝えるという歩みです。そのために、彼女は水瓶を井戸ばたに置いたま ま、急いで町へと戻ってゆくのです。  当時の社会の、特に女性にとって、水汲みに用いる水瓶は、非常に貴重な 財産でした。私もイスラエルで実際に水瓶を見ましたけれども、見るまでは、 それは何か土器のようなものかと想像していました。しかし実際に見る水瓶 は、堅くて丈夫な、有田焼のような立派な瀬戸物でした。ましてや二千年も 昔のことですから、良い水瓶というものは、たいへん値段も高いものだった に違いありません。ですから、彼女が水瓶を井戸ばたに遺したまま町に戻っ て行ったというのは、常識では考えられないことなのです。  時あかたも、この女性の、水瓶を置いたまま、急いで町に去ってゆく後姿 を見送りながら、あっけに取られている一群の男たちがおりました。それは、 ちょうどその時、スカルの町から帰ってきた主イエスの弟子たちであります。 同じ4章の8節を見ますと「弟子たちは食物を買いに町に行っていた」と記 されています。無事に食料を調達してヤコブの井戸に戻ってきた弟子たちは、 そこで、見知らぬ異邦人の女が、主イエスと会話をしているのを見ました。 しかし、今朝の27節を読みますと「そのとき、弟子たちが帰って来て、イ エスがひとりの女と話しておられる見て不思議に思ったが、しかし、『何を求 めておられますか』とも、『何を彼女と話しておられるのですか』とも、尋ね る者はひとりもなかった」と記されているのであります。  このことは、何を意味するのでしょうか。まず「何を求めておられますか」 という言葉は、主イエスに対して語ったものと理解することが順当ですけれ ども、あるいはこれは、女性に向かって語った言葉とも解釈することができ ます。もし、そうだとすると、このとき弟子たちが、誰一人として彼女にそ う尋ねなかったという事実は、この女性に対する彼らの無関心をあらわして いるのではないでしょうか。その無関心の根拠となったものは、彼女がユダ ヤ人ではなく、異邦の民であるサマリヤ人であったということです。すでに 主イエスと共に相当の期間を過ごしていた弟子たちでさえ、まだ“神の救い はユダヤ人だけのものだ”という選民思想から、自由になってはいなかった のです。だから「何を彼女と話しておられるのですか」とさえ尋ねる者がい なかったのです。  インドで献身的な働きをして、世界中の人々に注目されたマザー・テレサ が、日本に来て講演をいたしましたとき、「愛の対極にあるものは、憎しみで はない。実は無関心こそ、愛の対極にあるものなのである」と語っているの を聴きました。それは、本当ではないでしょうか。憎しみでさえ、ある意味 で相手にきちんと向かい合うことです。相手の顔を見てすることです。しか し無関心は、相手に向き合おうともせず、相手の存在を、無かったことにす ることなのです。見て見ぬふりをすることなのです。それこそ、愛の反対語 なのではないでしょうか。私たちは、憎しみが罪だと納得しても、無関心が それにまさる罪だということには気がつきません。だからこそ、いかに多く の人々が、いかに多くの場所で、この罪を犯していることでしょうか。  このときの、主イエスの弟子たちが、まさにそのような者であったのです。 彼らは、この女性の存在を、徹底的に無視するのです。彼女の言葉を、その 訴えを、なかったことにするのです。だから、この時の沈黙は、彼女の言葉 を聴くための沈黙ではなく、彼女の飢え渇きに心を閉ざすための沈黙です。 まだ、憎しみのほうが救いがあるかもしれません。憎しみは少なくとも、相 手に顔を向けることです。言葉もかけるかもしれない。しかし、このときの 弟子たちは、この女性に顔をそむけ、押し黙ったまま、彼女の存在を完全に 無かったことにしたのです。あの「善きサマリヤ人の譬え」の、祭司とレビ 人のように、傷つき、救いを求めている人を見ながら、それを遠まきにして 去って行くのです。ここに、弟子たちの、否、私たちの罪の姿があらわれて いるのであります。  弟子たちは、主イエスから霊の賜物を戴いておりながら、しかもこの大切 な時に、肉体に必要な食物を買うためにスカルの町に行き、そして主イエス のもとに、その食物を持って帰って来ました。かたや、この女性は、肉の欲 を満たすためだけの生活の中から、この井戸ばたで主イエスに出会い、主イ エスから霊の賜物をいただき、生まれ変わった者として、その霊の賜物をた ずさえて、スカルの町へと戻ってゆくのです。弟子たちは、この女性の姿を 見ながら、見て見ぬふりをしました。彼女の存在を無視しました。しかしこ の女性は、自分にとって大切な財産である、水瓶を置いたまま、キリストに 出会った喜びを伝えるために、自分に背を向けてきたスカルの人々のもとへ と走って行くのです。弟子たちは、彼女にも、主イエスにも、何も尋ねよう としませんでした。しかし、この女性は、主イエスに対して、生命の水のあ りかを必死になって問う者として、罪の汚辱の中から、主イエスの御顔に向 き合ったのであります。弟子たちは、大勢いても、誰一人としてスカルの町 の人々に福音を宣べ伝えませんでした。しかし、この女性は、たった一人で、 しかも彼女を蔑み、軽蔑する町の人々に、キリストを宣べ伝えるために、彼 らのもとに走って行くのです。  地位も学問も財産も名誉も、この世が尊ぶものは何一つとしてない、たっ た一人のこの名もなき女性が、キリストの弟子たちに先んじて、主の御業の 証し人となってゆくのです。ここに、私たちを救う神の御業が、私たちの罪 を贖うキリストの救いの真実(まこと)が、現れているのではないでしょう か。讃美歌の85番に「主のまことは、荒磯の岩、さかまく波にも、などか 動かん」と歌われておりますが、私たちはたとえ、どのような罪の怒涛がさ かまく中にあっても、キリストの真実という、揺るがぬ岩の上に立つ者とさ れているのです。そこに、私たちの救いがあるのです。私たちが揺るがぬ者 となることではなく、揺るがぬキリストという「千歳の岩」の上に立つこと が私たちの救いなのです。英国の詩人ジョン・ミルトンが申すとおりです。 「われ岩の上に立ちて、寄せ来る怒濤のゆえにいたく恐れぬ。されど、わが 立てる岩は永遠に揺るぐことなし」。  まさにその、永遠に揺らぐことのない岩なるキリストに出会い、キリスト によって贖われた喜びを伝えるために、この女性は、大切な水瓶を井戸ばた に遺したまま、スカルの町へと急ぎ戻ってゆくのです。思えば、町の人々に 蔑まれ、生きながらにして葬られていた女性です。人目を避けるために日中、 水汲みをしに来ていた女性です。その女性が、今や、その町の人々のもとに、 喜びと自由の福音をたずさえて戻ってゆくのです。これが、神のなしたもう 奇跡にあらずして、何が奇跡でありましょうか。町に戻る彼女の、心の中に、 恐れと戸惑いがなかったわけではありますまい。恥ずかしさもあったでしょ う。積年の恨みつらみも、脳裏を横切ったことでしょう。しかし、どのよう な思いも、キリストに出会った喜びを伝えんとする彼女の歩みを、とどめる ことはできなかったのであります。  彼女が井戸ばたに置いてきたのは、ただ水瓶だけではありませんでした。 愛の対極にある無関心という、大きな罪をもって、彼女を審き続けてきたあ らゆる人々に対する、彼女自身の無関心という罪をも、彼女はこのとき、水 瓶とともに、主イエスのもとに置いて来たのであります。人間は、自分が審 かれたと知ったとき、無言のうちに、その相手をも審きかえしています。審 きの罪は新しい審きを生み出し、相乗効果をもたらして、両者の間にある溝 はますます深まってゆきます。ユダヤ人とサマリヤ人、スカルの町の人々と この女性、そして、主イエスの弟子たちとの間にさえ、この溝は生れてきた のであります。  しかし、その人と人、民族と民族、国と国とを隔てる、あらゆる敵意と審 きという深い断絶をものともせず、このたった一人の女性に出会うために、 彼女の飢え渇きを満たすために、主イエスは、このヤコブの井戸に来られま した。全ての人々の罪を贖う十字架の道行きの途上において、まさに受難節 (レント)の歩みをなしたもう主として、主は、彼女のやり場のない訴えに、 その哀しみに、耳を傾けて下さいました。その主イエスとの出会いが、その 主イエスが与えて下さった生命の水が、この女性の渇ききった魂にふれたと き、彼女はそれまで幾重にも自分を縛りつけてきた、無関心という名の審き の罪を、主イエスの御手に委ねることができたのです。水瓶とともに、彼女 は古き罪のおのれをも、主イエスのもとに置いて来たのです。主の御手に委 ねることができたのです。  それならば、私たち一人びとりにも、まさにその、同じ恵みが与えられて いるのではないでしょうか。私たちの生活にも、あたかも滓がたまるように、 審きの心が、他者に対する冷たい無関心が、心の奥底に沈殿してゆきます。 ふと気がつけば、沈殿したその泥の中で、自分自身さえも身動きがとれなく なっているのを見出すのです。そして信仰生活さえ、偽りに満ちたものとな ります。「隣人を愛せよ」という言葉が、単なる律法の言葉となってしまいま す。自分にはそれはできない。できない自分は、どこかで本物のキリスト者 ではないと、たかをくくってしまうのです。あるいは、開き直ってしまうの です。できなくってどこが悪い。周りを見たって、似たり寄ったりではない かと、今度は周囲を審きはじめるのです。どんぐりの背比べの中で、ひそか な安心感をいだき始めるのです。  しかし、キリストと共に歩む生活、キリストに贖われ、赦された者の生活 は、そのようなものではないはずです。自分には出来ないといってうなだれ るのではなく、ましてや、周囲を見回して似たり寄ったりだと安心するので もなく、私たちのなすべき生活は「この兄弟のためにも、主は死なれたので ある」という、決定的な恵みの宣言のもとに立つことであるはずです。自分 を岩とするのではなく、キリストのみが唯一の、永遠に揺るぐことのない岩 であることを告白してやまぬ生活であるはずです。私たちが常に仰ぐべきお 方は、エペソ人への手紙2章11節以下が告げている、十字架のキリストそ のお方であります。  「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦 人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の 者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍 がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神 もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れて いたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いもの となったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一 つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規 定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二 つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、 二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼ してしまったのである」。  まさしく、この十字架の主の贖いの恵みが、あのサマリヤの女性の歩みを、 断絶を乗り越えしめ、福音を指し示す「よきおとずれを告げる者」の歩みへ と造り変えるのであります。彼女の、そして全ての人々の罪のために十字架 への道を歩んで下さる、主イエスとの出会いにおいてこそ、審きに報いるに、 キリストの祝福をもってなす、使徒の生活へと彼女は変えられてゆくのです。 贖いのことを英語でアトネメントと申しますが、これは字にするとまさしく、 エペソ書2章15節の言う「キリストにあって、二つのものをひとりの新し い人に造りかえて平和をきたらせる」ことであります。罪によって断絶して いた者を、滅びの子でしかなかった私たち自身を、キリストは十字架と復活 によって「ひとりの新しい人」すなわち、主をかしらとする教会に連なる者 として下さり、そこであらゆる断絶を乗り越えしめ、かつ「平和をきたらせ る」者として、私たちの小さな歩みをも、用いて下さるのであります。私た ちの生涯そのものが、あるがままに、キリストの恵みの素晴らしさを物語る ものとされてゆくのです。  このサマリヤの女性は、まさしく、そのような主の器として、断絶でしか なかったスカルの町へと戻ってゆくのです。そこで、出会う人々すべてに、 キリストを指し示すのです。このかたが、私の哀しみに触れて下さった。こ のかたが、私の手を取って起こして下さった。このかたが、私の罪と滅びを 贖い取って下さった。このかたが、私の救いとなって下さった。そして、こ のかたの救いの御力によって、私ははじめて生きる者とされた。生命の泉を 汲む者とされただけではなく、その生ける水は、私の中で新しい泉となり、 一人でも多くの人々を潤そうとする、神の御業に仕える僕となして下さった。 いま彼女は、心からの喜びと、感謝と、畏れと、信頼とをもって、キリスト に従う者とされ、町中の人々に、キリストによる救いの御業を指し示しはじ めるのです。  そして、そこに、驚くべきことが起こります。今朝の御言葉の、最後の30 節であります。「人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った」。人々 をキリストへと向かわせたもの、それは、彼女自身の知恵や力ではありませ ん。そのようなものは、何一つとしてない女性でした。彼女が指し示したキ リストそのものが、人々の歩みをキリストのもとへと向かわしめたのです。 私たちも、同じではないでしょうか。私たち自身の力や知恵を頼みとしてい る間は、本当の伝道などできません。自分を無にして、主の器となって、た だひたすらにキリストのみを指し示すときに、そこに、私たちの思いをはる かに超えた神の御業が、あらわれるのであります。  主が仰せになっておられるとおりであります。「わたしが与える水を飲む 者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その 人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。この「命 の水」を、私たちは、主イエスの御手から親しくいただき、潤された者とし て、それぞれの持ち場へと遣わされてゆくのであります。