説   教    詩篇27篇4節   ヨハネ福音書4章19〜26節

「まことの礼拝」

2008・02・03(説教08051204)  主イエス・キリストと、サマリヤのスカルの女性との「生命の水」をめぐる対話の 続きです。その第3回目の学びをいたします。今朝の御言葉において、私たちはいよ いよ対話の核心部分へと入って参ります。この女性を捕え、孤独と悲惨に投げこんで いた問題が、次第に明らかにされてゆきます。それは同時に、私たち全ての人間に共 通する問題なのです。  自分に「罪の女」というレッテルを勝手に貼り付け、鼻先であしらう世間の人々に 対して、このスカルの女性は、自分にも他人にも、絶望するほかはなかったのです。 ひとたび社会から「不道徳な女」という評価を決められた以上、そこから逃れる術は ありませんでした。「あれは性質の悪い女だ」という陰口を、彼女は数知れず聞かされ てきたことでしょう。しかし誰も、彼女を捕えている悲しみの根底にある魂の飢え渇 きを、理解してはくれませんでした。「活ける生命の水」を求めてやまぬ彼女の叫びは、 無視されたままだったのです。  病気になって病院にやって来た患者に「あなたはどうして、病気になんかなったの だ」と訊く医者は、医者として失格です。人間に必要なことは、その病気を治療する ことであって、病気の分析をしてみせることではありません。この女性の魂が「活け る生命の水」によって潤され、生命の輝きと自由と喜びとを回復するために、本当に 必要なものが何であるか、主イエスのみが知っておられます。彼女が知らずして求め 続けていたもの、魂の飢え渇きの正体を、主イエスは御言葉によって明らかにして下 さり、あたかも彼女みずからがそれを見いだしたかのように「生命の水」へと導いて 下さるのです。  すでに彼女は19節において、主イエスのことを「預言者」と呼んでおりました。 預言者とは、神から遣わされ、神の御言葉を宣べ伝えて下さるかた、という意味です。 彼女は気づきはじめています。このかたが与えて下さる「活ける水」こそ、まことの 神の御言葉(福音)にほかならないのだということを。だから、そこから彼女の問い かけは、突如として「まことの礼拝」の問題に移ってゆきます。それが今朝の20節 の御言葉です。「わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼 拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」と、必死になって彼女は問うの です。  彼女が言う「この山」とは、かつてサマリヤの人々が、ユダヤ人の聖地エルサレム に対抗して聖所としたゲリジム山のことです。モーセがその子イサクを献げた山とし て知られていました。そこでこそ彼女は問うのです。主よ、いったいどちらが、本当 の礼拝の場所なのでしょうか。両者ともに正統性を主張して一歩も譲らず、果てしな い争いと憎しみが続いているのは、どうしてなのでしょう…。彼女の存在の根源にあ った「まことの礼拝」への問いが、飢え渇きが、堰を切ったように溢れ出すのです。 私たち人間にとって、まことの神を知ること(礼拝すること)こそ、自分を本当に受 け入れ、他者を愛することなのです。そのことを、この女性の訴えは示しているので す。  ドストエフスキーの小説が、恐ろしいほど真実に、人間の問題を捉えているのは、 人間を、神に造られたもの、まことの神を知るべきものとして捉えているからです。 人間の問題は、人間の内側を詮索するだけでは絶対に理解できないのです。人間を本 当に理解するためには、まことの神を知る「まことの礼拝」の問題に関わるほかはな いのです。それは「まことの礼拝」の回復だけが、この世界と人間の唯一の回復の道 だからです。私たちは小賢しいものですから、これを逆に考えるのです。「まことの礼 拝」の回復と聞くと、それはなにか、人間の自由や主体性を奪うもののように思い違 いをするのです。むしろ、礼拝から解放されることが人間らしい生活なのだと考える のです。  しかし人間は、唯一のまことの神への礼拝を失えば、無数の偶像(虚構)に支配さ れるほかはありません。人間に纏わりつく罪と死の枠組みの中で、どんなに自由だの 主体性だのと言ったところで、所詮それは「井の中の蛙」の自由にすぎないのです。 あのパリサイ人たちがそうでした。自分たちが「アブラハムの子孫」であると称しな がら、その実は、罪の奴隷であるにすぎなかったのです。譬えて言うなら、疾走する 新幹線の中で逆方向に走るようなものです。それが無意味なのと同じように、私たち の存在が罪と死に向かって疾走している中で、どんなに生命に向かって逆走しようと あがいても、それは無意味なのです。やがて本当の死と滅びが、罪が、私たちを支配 するたけです。罪が「われ汝に勝利せり」と、凱歌を上げるだけです。私たちの救い は、私たち自身の中にはありません。罪と死に勝利したもうた贖い主、イエス・キリ ストの中にのみ、私たちを生かす真の自由と幸いがあるのです。  まさに、そのような勝利の主として、主イエスは彼女に言われます。21節以下の御 言葉です。「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、また エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」。続く23節にこうもお語りになる のです「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する 時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられ るからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべ きである」。  私たちは、ここで主イエスが彼女に「わたしの言うことを信じなさい」と、信仰を 求めておられることに心をとめねばなりません。「信ずる」とは、ただ神に対してのみ 用いられる言葉です。ただ信用するとか、本当だと思うということではないのです。 私たちはここに、スカルの女性と共に、主イエスを“まことの救い主”(キリストと告 白する信仰を問われているのです。このことは「まことの礼拝」の唯一の根拠を明ら かにすることです。「イエス・キリストは主なり」という信仰告白(キリスト告白)の みが「まことの礼拝」を形作ります。ゲリジムの山も、エルサレムも、ついに「まこ との礼拝」の場とはなり得なかった理由は、そこがキリスト告白の場所ではなかった からです。キリスト告白が確立しないところに「まことの礼拝」はありません。その 逆に「イエスは主なり」という信仰告白が健やかになされ、ただ御言葉のみが宣べ伝 えられ、聖礼典が正しく行われるならば、たとえ「二人または三人」の群れの中にさ え、主は共にいて救いの御業を現して下さるのです。礼拝をして真実たらしめるもの は「イエスはキリストなり」と信ずる教会の信仰告白です。言い換えるなら、活ける イエス・キリストの御臨在こそが「まことの礼拝」の唯一の根拠なのです。  幾度となく語ってきたことですが、ドイツ語で礼拝のことを“ゴッテスディーンス ト”と申します。これは「神への奉仕」と「神の奉仕」という、二つの意味を持つ言 葉です。礼拝はただ、私たちが神に献げる奉仕というだけではない。神ご自身が御子 キリストにおいてなさって下さった「神の奉仕」(神の御業)を基礎とするものなので す。それは何よりも、キリストの十字架の御業です。私たちの献げるこの礼拝の基礎 は、キリストの十字架の御業なのです。それならば、私たちはこの礼拝において、た だひたすらに恵みと祝福を受ける者となるのみです。「アーメン、われ信ず、信仰なき われを助けたまえ」と言えるだけです。そのことが、次第にこの女性にも、わかって きたのです。その証拠に、彼女は主イエスとの対話の中で、ついに今朝の25節の言 葉へと導かれてゆきます。それは「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられる ことを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを 知らせて下さるでしょう」という言葉です。ついに「キリスト」という言葉が彼女の 口から出てきます。キリストによる救いを待ち望む信仰へと導かれたのです。  彼女は言うのです。主よ、本当に、あなたが仰せになるとおりです。私が知らずに 求め続けていたもの、私の人生を真に潤す生命の水は、ただまことの神を信じ告白す る「まことの礼拝」の生活にあるのです。私はどんなにか、切にそれを求めてきたこ とでしょう。このゲリジム山でも、またエルサレムでもなく、ただまことの神を「霊 とまこととをもって」礼拝する生活だけが、私を本当に生かし、生命と平安を与え、 罪の赦しと、義と、永遠の希望へと導くものです。そして、私は知っています。私た ちにそのような「義の生命」をお与えになるおかたとして「キリストと呼ばれるメシ ヤが」いつの日にか来られることを。やがていつの日にか、かならず、私たちの罪を 贖い、まことの「生命の水」を与えて下さる救い主が世においでになる。そのことを、 私はどんなにか、待ちこがれていることでしょう。  あのヨブのように「われは知る、われを贖う者は生く。わが魂はこれを慕いて焦が るる」と、彼女は言うのです。罪からの救いが、ただイエス・キリストにのみあるこ とを、信じ、告白するのです。キリストがおいでになるその日、その時こそ、自分の 飢え渇きは満たされ、潤され、存在の深みまでも新たにされて、まことの礼拝者とし て生きる、喜びの歩みが始まる。その日が、やがていつか世界に訪れることを「わた しは、知っています」と言うのです。それならばなおさらのこと、私たちはこの女性 と共に、今朝の御言葉が告げている限りない祝福のもとに、いま立たされているので はないでしょうか。それは、今朝の御言葉の最後の26節です。この対話のいちばん 最後に、主が告げていて下さる御言葉です。「イエスは女に言われた、『あなたと話を しているこのわたしが、それである』」。  このヨハネ伝は、これから先にも、いたるところで、この、主が言われた「わたし が、何々である」という不思議な御言葉を伝えています。「わたしは世の光である」。 「わたしは道であり、真理であり、命である」。「わたしはいのちのパンである」。これ 以上に幸いな、慰めに満ちた御言葉が、どこにあるでしょうか。私たちを救うまこと の神は、私たちの手の及びがたい高みにあり、私たちを見下ろしているようなかたで はない。私たちを極みまでも愛し、私たち罪の塊のような人間の救いのために、全て を無になさって世に降られ、私たちのただ中に宿られ、私たちを尋ね求め、私たちに 出会われ、私たちの魂の悲しみと、飢え渇きの最底辺に御手を触れて下さるおかたな のです。そこでこそ「わたしこそ、それ(キリスト)である」との御声を、私たちは 聴くのです。  「わたしこそ、それである」。このかたこそ、私たちの存在にまつわる罪と死の重荷 を担い取って、私たちの身代わりになって、十字架にかかって下さったかたです。御 自身の死によって、私たちの死を、打ち滅ぼして下さったかたです。私たちを復活の 生命にあずからせるために、復活の初穂となって、墓から甦って下さったかたなので す。まさに、そのようなかたとして、主イエスは、今ここで、私たち一人びとりに告 げておられる。「あなたと話をしている、このわたしが、それである」と。あなたは、 既にわたしに出会っていると、告げて下さっているのです。あなたが「まことの礼拝」 に連なる時、あなたの救いの時は、いま来ていると、主は告げていて下さるのです。 その確かな保証として、御自身の十字架を指して下さるのです。「わたしが、それであ る」と告げて下さるのです。  言い換えるなら、あなたが私を求める、はるか以前に、私はあなたを求めた。あな たを尋ね、あなたに出会うために、私はここに来たのだと主は言われるのです。だか ら、私たちがキリストに出会うということは、私たちがキリストを尋ね求めるはるか 以前に、すでに私たちを尋ね求めていて下さったキリストに出会うことです。キリス トの御業が、キリストの愛が、キリストの歩みが、私たちに常に先んじているのです。 そのようなおかたとして、主は私たちの根源的な飢え渇きに、まず御自身の側から 御手を差し伸べて下さった。そして御自身の復活の生命をもって、その飢え渇きを満 たして下さるのです。そこに、あらゆる人間の魂の彷徨は止み、生命と祝福の道は始 まり、キリストと共に、キリストの主権のもとを歩む、新しい礼拝者としての生活が 始まってゆくのです。主の御名を讃えつつ、御業を讃美しつつ、救われし喜びを告げ る者として、私たちの生涯が、また存在そのものが、キリストの絶大な愛をさし示す ものへと変えられてゆく。そこに、私たちの本当の自由があり、幸いがあり、感謝が あり、喜びがあるのです。