説     教   詩篇147篇1〜3節  ヨハネ福音書4章15〜19節

「主と共なる生活」

2008・01・27(説教08041203)  「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、 その水をわたしに下さい」。今朝、拝読いたしましたこの15節の御言葉に、私たち 人間が本当に求めているものが何であるかが、現れているのではないでしょうか。  これは、サマリヤのスカルというの町の、井戸のかたわらにおける、一人の女性 と主イエス・キリストとの対話の続きです。最初はこの女性には、主イエスの御言 葉の意味がよく分かりませんでした。「永遠の命に至る水」と聴いても、それがいっ たい何のことなのか、彼女には理解できなかったのです。  それで彼女は、ともかくも、自分が二度と渇くことがないように、そしてまた、 人目を避けて日中に水を汲みに来なくても済むように、その、あなたが持っておら れるという「活ける水」とやらを、ぜひ私に下さいと必死になって願うのです。そ れが、今朝の15節以下の御言葉の場面です。  だからこれは、滑稽な場面だとさえ言えるのです。主イエスは霊の生命を問題に しておられるのに、この女性は、物質としての水だけにこだわっている。実に間の 抜けた噛み合わぬ問答です。「おはようございます」と挨拶されて「おやすみなさい」 と答えるようなものです。主イエスの御言葉を、彼女は完全に履き違えています。  しかし彼女は、自分でも知らぬままに、主イエスとの対話の深みへと引きこまれ てゆくのです。単なる知識よりも、はるかに大切なものが、ここには現れているか らです。それこそ十字架の主なるイエス・キリストとの出会いです。知識を超えた まことの生命、主の御言葉の中に迸る「活ける水」が、彼女の全存在を捕え、揺り 動かし始めるのです。主と共なる新たな歩みへと、彼女を駆り立ててゆくのです。  顧みて、私たちはどうでしょうか。私たちはなるほど、キリストに関する知識の 点では、このスカルの女性よりも幾分かまさっているかもしれません。しかし「キ リストについて知ること」と「キリストを信じ、キリストに従う」こととは違うの です。その意味では、私たちこそ、このスカルの女性以上に、主イエスの御言葉が 「わかっていない」存在であると言わざるをえません。私たちこそ、主の御言葉を 履き違えているのです。  このスカルの女性は、わからぬままに、しかし私たちに先んじて、主イエスの御 言葉の深みへと進んでゆきます。私たちが“主イエスについての知識”を云々して いる間に、彼女は、主イエスの御手の中へと身を委ねてゆきます。そこでこそ私た ちは、今朝の15節の御言葉によって問われているのではないでしょうか。私たち は今ここに、このスカルの女性のような愚直なまでの熱心さで、主イエスから素晴 らしい恵みを期待しているのでしょうか。大切なことはキリストについての知識で はありません。それが人の目にはどんなに滑稽な“求め”であっても、私たちがこ の女性のような大胆さをもって、主イエスに、自分を潤す生命の水を求めているか どうかなのです。  私が神学校で学んでおりました頃、エードゥアルト・シュヴァイツァーというス イス人の教授がおられました。現在90歳を超えてもお元気で、神学者として活躍 しておられます。たいへん気さくなかたで、私たちはこの先生と共に、食堂で食卓 を囲みながら、いろいろなお話を伺うのが楽しみでした。そのころ、先生から聞い たお話で特に印象に残っているのは、日本の教会の礼拝についての感想です。  シュヴァイツァー先生によりますと、日本の教会の礼拝は、ちょうど学校の教室 の風景に似ている。教壇の上に先生がいて、生徒たちが一所懸命に知識を学んでい る。しかし礼拝は、それだけではありませんと、先生は私に言われたのです。スイ ス改革派教会の豊かな伝統の中で育たれ、自らも改革派教会の牧師であられたシュ ヴァイツァー先生は、改革派教会がカルヴァン以来、ほんらい持っていた礼拝の力 と慰めを、身をもって経験しているのです。その先生の目から見たとき、日本の教 会は、どうも学校の教室のように見えてならなかったのでしょう。  私は、このことは今もってなお、私たちに問われていることだと思っています。 礼拝は、牧師が信徒に、何かの知識を伝達する場ではないはずです。礼拝は、福音 のみを宣べ伝えることによって、聖霊によるキリストの御臨在のもと、キリストに よる救いの御業が私たちのただ中に起こる時です。私たちがまことの神を崇め、神 にのみ栄光を帰する時です。それならばなおのこと、そこで私たちが問われている ことは「あなたはイエス・キリストを主(救い主)と告白するか否か」ということ ではないでしょうか。 逆に言うなら、知識がどんなに増しても、教会生活から離れてゆくとすれば、そ の知識は本物ではないのです。私たちの歩みは、えてして礼拝者(キリスト告白者) の歩みではなく、単なる学習者の歩みになってはいないでしょうか。学習には卒業 がありますが、礼拝(キリスト告白)に卒業はありません。主の救いの恵みを知る、 信仰による知識が増せば増すほど、私たちの生活は教会を中心としたものになって ゆきます。またその知識は私たちをいよいよ堅く、キリストへと結ぶものになるの です。  このスカルの女性は、その意味で「キリストについて知る」知識ではなく「イエ ス・キリストは主なり」と告白する、まことの信仰にもとづく知識へと、主の御言 葉によって導かれていったのです。だからこそ、彼女の問いは突如として、礼拝の 問題へと移ってゆきます。それは、主が彼女に「あなたの夫を呼びに行って、ここ に連れてきなさい」と言われたすぐ後のことであります。16節以下を読みましょう。 「イエスは女に言われた、『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい』。 女は答えて言った、『わたしには夫はありません』。イエスは女に言われた、『夫がな いと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫 ではない。あなたの言葉のとおりである』」。  ここに、この女性の存在を、二重三重に縛りつけ、悲しみと絶望に陥れていたも のを伺い知ることができます。主は単に、彼女の過去を尋ねておられるのではあり ません。たとえ、主がそういうことを全て言い当てられたとしても、それは驚くべ きことではあっても、彼女の“救い”とはなりません。だからこそ私たちは、今朝 の御言葉の最後の19節に、彼女が「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます」と 言っていることに注目したいのです。この「預言者」とは“自分の過去を言い当て る人”という意味ではなく“神から遣わされ、神の御言葉を語って下さるかた”と いう意味です。  旧約聖書でも新約聖書でも、神と私たち、またキリストと私たちとの関係は、し ばしば婚姻関係に譬えられています。これはとても大切なことです。なぜならそれ は自然の、生まれつきの関係ではなく、神の選びと契約に基く新しい生活を意味す るからです。神は私たちを、男であっても女であっても、測り知れない愛によって 主の教会に結ばれた「贖われたシオンの娘」として下さいます。恐るべき罪の闇の 中から、私たちをキリストによって贖って下さり、私たちの歩みを「主に贖われ、 救われたシオンの娘」の歩みとして下さるのです。その救いの恵みを、聖書は唯一 の夫(キリスト)に結ばれた花嫁(教会)の幸いに譬えるのです。  それならば、このサマリヤの女性にとって、かつて「五人の夫」があって、しか も「今のはあなたの夫ではない」という境遇は、単に彼女の過去を現わすのではな く、彼女が歩んで来た絶望的な魂の彷徨、またその悲しみを現している御言葉なの です。しかも、彼女を縛っていた「五人の夫」にも譬えられる力は、それが彼女の 「夫」であるという理由で、個人的にも、社会的にも、道徳的にも、彼女の存在を 無視し、拘束し、彼女に忠誠を誓わせ、支配し続けていたのです。具体的にそれが どういう力であったのか、イスラエルの伝統的なユダヤ教、あるいは律法主義、サ マリヤの独自な宗教的伝統と理解することもできますし、その他もろもろの宗教、 または異邦人としての彼女の境遇、あるいは、彼女に対する社会の偏見や審きとも 理解できます。  しかし最も重要なことは、この「五人の夫」とは、彼女を支配していた罪と死の 力にほかならないということです。だから彼女は、それに抵抗できなかったばかり でなく、その力からの救いをさえ持ちえなかったのです。罪と死に支配されたとき、 人間が自分を生かすために取りうる手段は、虚無主義(ニヒリズム)か自己否定か、 いずれかでしかありません。彼女は虚無主義を選びました。彼女は罪と死の影から 何とか逃れようとして、自分を拘束しない、夫とも呼ぶことのできない、形ばかり の伴侶を見出し、せめてそこに、虚しい慰めを得ようとしたのです。人生のあらゆ る事柄に距離を置き、深入りしないでいようとしたのです。それは彼女なりに必死 に身につけた人生の知恵でした。しかしその虚無主義もまた、彼女にとってなんの 救いにも、解決にもならなかったのです。  主イエスはまさに、この彼女の心の奥深くに秘められていた、魂の大きな悲しみ と孤独に、御手を触れて下さったのでした。誰も理解してはくれなかった、彼女の 本当の求めに、耳を傾けて下さったのです。彼女の真の救いがどこにあるかを知ら しめるために、あえてここに、彼女を支配し続けてきたもの(五人の夫)をお尋ね になるのです。そのようにして主は、彼女が知らずに求め続けていたもの、また、 どこに求めてよいかさえ知らずにいたものを、少しずつ明らかにして下さいます。 彼女は、主イエスの御言葉の光の中で、少しずつ、神のかけがえのない選びと契約 の中にある自分を取り戻してゆきます。虚無の支配は終わりを告げ、復活の生命の 喜びが彼女の全存在を覆うのです。  今朝、併せてお読みした詩篇147篇1〜3節に、このようにありました。「主をほ めたたえよ。われらの神をほめうたうことはよいことである。主は恵みふかい。さ んびはふさわしいことである。主はエルサレムを築き、イスラエルの追いやられた 者を集められる。主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷をつつまれる」。  真実なる礼拝への招きの御言葉です。私たち一人びとりに告げられています。「わ れらの神をほめうたうことはよいことである」と。この「よいこと」と訳された元々 の言葉は「真に人を活かす祝福」という言葉です。このスカルの女性を真に活かし める本当の祝福、罪と死の力からの解放が、キリストのもとにこそあるのです。そ の主は彼女の、また私たちのために「エルサレムを築」いて下さる。「イエスは主な り」との揺るぎなき信仰告白の上に建つまことの教会へと、私たちを招いて下さる のです。そこでこそ「(主は)イスラエルの追いやられた者を集められ、心の打ち砕 かれた者をいやし、その傷をつつんで下さる」のです。  この、まことの神に出会うまで、真の礼拝を知るまで、人生ほど虚しく意味のな いものはないと、スカルの女性は思っていたことでした。まさにその彼女の、絶望 と不安におののく全存在に、その言い知れぬ魂の孤独に、主イエスだけが触れて下 さった。彼女の悲しみのあるがままを、主イエスだけが受け止めて下さった。彼女 が安住していた絶望の窪みの中から、ただ主イエスだけが、彼女の手を取って引き 起こして下さったのです。そのために、まず御自身が彼女の前に、渇きを訴える者 となり、彼女に御自身の弱さを顧みることをお求めになり、彼女の堅く閉ざされて いた心の扉を開いて下さり、彼女を縛り付けていた罪と死の支配を、御自身の十字 架をもって打ち砕かれ、希望と生命と喜びの人生に向かって、彼女の全存在を解き 放って下さったのです。  今日から、主があなたと共に、彼女と共に歩んで下さいます。単なる同伴者とし てではありません。私たち全ての者を支配する、恐るべき罪力を、十字架において 打ち砕いて下さったまことの救い主として、主は「見よ、わたしは世の終りまで、 あなたがたと共にいるのだ」と告げていて下さるのです。その最も確かな保証とし て、ここに御自身の御身体なる教会をお建てになり、そこに私たちを、ただ恵みに よって招いて下さったのです。教会に連なることはキリストに連なることです。キ リストに連なるとき、私たちの人生は、罪と死の力に勝利して下さったキリストの 御力に覆われたものとなるのです。私たちは何の値もなきままに、キリストの義を まとう者とされているのです。  私たちは、改めて冒頭の15節の御言葉に戻りましょう。「主よ、わたしがかわく ことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。 私たちの人生を真に潤し、私たちを救う「永遠の命に至る水」は、ただ、十字架の 主イエス・キリストにあるのです。ここに、あらゆる人間が、知らずして求め続け ている、本当の「活ける水」があるのです。飲んでも再び「かわく」偽りの水では なく、キリストの与えたもう「活ける水」を汲む者は「いつまでも、かわくことが ないばかりか、(その水は)その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあ がる」のです。その水こそ、十字架の主の御言葉と御業が、私たちを救い、祝福し てやまないのです。  そこに、人生の彷徨は終わりを告げ、キリストと共に、キリストの生命に覆われ、 キリストの祝福と導きのもとを歩む、新しい甦りの人生が開かれてゆくのです。