説     教    詩篇1篇1〜6節   ヨハネ福音書4章1〜14節

「活ける水」

2008・01・20(説教08031202)  今朝より3回に分けて、サマリヤのスカルという町の井戸ばたにおける、主イエス と一人の女性との対話を通して、ご一緒に福音の御言葉を聴いて参りましょう。ヨハ ネによる福音書の4章1節から30節までの御言葉です。今朝はその第1回目、4章1 節から14節までのところを与えられています。 私たちが人間として社会に生きてゆく上で、本当に難しい一つのことは、いつも偽 りのない正しい視線で物事を見、判断するということです。たとえばマスコミの影響 力というものがある。テレビや新聞、あるいは世間の噂話(風評)というものに、私 たちは左右されやすいのです。「世間でこう言っている」「あの人からこう聴いた」と いうことが、いつのまにか自分の判断と摩り替り、自分の目できちんと事柄を見、冷 静に判断するということが失われてゆく。このことは実は、私たちの人間としての生 きかたの根本を問う問題なのです。  ここに、一人の女性が登場します。ユダヤ人にとっては蔑むべき異邦の土地である サマリヤのスカルという町の、ヤコブの井戸の傍らにおいて、主イエスの対話の相手 となるこの女性は、次から次へと夫を替えて、今は6人目の男と同棲している女性で した。当時のユダヤの法律では、男も女も3回までは再婚が認められていました。し かしこの女性は、その社会的な許容範囲をはるかに超えて、結婚生活そのものに絶望 していた。そういう様子が、この4章の御言葉から伺い知れるのです。  そこに見えてくるものは、凄まじいばかりの彼女の孤独です。傷つき、飢え渇いた 魂の叫びです。このスカルの女性は、自分に対して好奇と軽蔑の目を向ける社会の人々 に対して、いつしか堅く心を閉ざし、語るべき言葉を失い、今は「夫」とさえ呼べな いような男と共に、身を潜めるように生きていたのです。この女性の心の叫びに、人々 は全く耳を傾けようとせず、彼女はそれに対抗するように、社会を呪い、人々を疎ん じ、絶望感という(ある意味で)心地よい窪みに身を委ねていたのではないでしょう か。  この女性に、主イエスが出会われるのです。と申しますより、今朝の御言葉の4節 を見ますと「しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった」と記されて います。普通、ユダヤ人の旅人は、敵対していたサマリヤ人の地は避けて(回り道を して)旅をしました。ところが、主イエスは敢えてそこを「通ること」を望まれまし た。主イエスは「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためであ る」また「失われた者を尋ね出して救うためである」と言われました。まさに主は、 魂において「失われた」者(神に対して死んだ者)となっていたこの女性に出会うた めに「サマリヤ」に来て下さるのです。私たちのもとへと来て下さるのです。  さて、このスカルという町は、19節以下の対話の内容から見ますと、サマリヤの人々 がエルサレムに対抗して建てた、ゲリジム山の神殿にほど近い場所にあったようです。 俗に「骨肉の争い」と申しますが、かつては同胞であったユダヤとサマリヤとの間に は、宗教的な対立があり、底知れぬ憎しみが支配していました。当時の言葉に「サマ リヤ人は、ユダヤ人に、水一杯も恵んではならない」というものがあったほどです。  ところが、そこに驚くべきことが起こるのです。「時は昼の十二時ごろであった」と 記されています。旅の疲れを覚えて、主イエスはこのスカルの町外れにあるヤコブの 井戸の傍らで休息しておられたのです。弟子たちは食料を求めて出かけてゆき、主イ エスだけがそこにおられました。そこに水瓶を持って、あの女性が水を汲みにやって 来ました。普通、水汲みの仕事は早朝に行うものです。昼さなかに水汲みに来るとい う行為自体が、この女性の孤独を現わしています。いずれにせよ、井戸の傍らにいる ユダヤ人の男、主イエスの姿を見て、彼女は困ったことでしょう。町の人々からは疎 外され、同棲していた男とも心は通っておらず、それに加え、憎き敵であるユダヤ人 の男と、井戸の傍らで出会ってしまったのです。わが身の不運を嘆きたくなったこと でした。ここは無視して水を汲み、急いで帰ろうとしていたところに、なんと主イエ スのほうから、突然、彼女に声をかけてきたのです。  「水を飲ませて下さい」。これが、彼女を驚愕させた主イエスの第一声でした。「こ の人は、どうかしているのではないか」と彼女は思ったことでした。自分は既に肉体 的に社会の常識を破っている女だ。しかしここに、霊的に社会の常識を破っている男 がいる。求めても与えられるはずのない(与えてはならない)水を、幼子のように素 直にサマリヤの女の自分に求めて来る、この常識破りの男はいったい何者かと、彼女 は思ったのです。だからこう問いました。「あなたはユダヤ人でありながら、どうして サマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。冗談ならば止めて欲 しい。本気ならば、あなたはどうかしている。彼女の声は怒りをさえ含んでいたに違 いありません。  ところが、主イエスはお答えになって、こう言われたのです。「もしあなたが神の賜 物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていた ならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。彼 女の驚きは畏敬の念へと変わりました。常識破りどころではない。この人は本当に“た だならぬ人だ”と感じたのです。律法学者たちでさえ見抜けなかった主イエスのお姿 を、社会から葬られていたも同然なこの女性が、見抜き始めるのです。主イエスの内 に、自分を真に生かす「何か」があることに気づき始めるのです。  どうか注意して下さい。イエスに対する彼女の言葉づかいは、いつの間にか神聖な かたをさす「主よ」という表現になっています。11節です。「主よ、あなたは、くむ 物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入 れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いか たなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだの ですが」。このように尋ねる彼女は、もはや水汲みのことも忘れていました。それほど、 主イエスの御言葉が彼女の魂を強く揺り動かしたのです。彼女が孤独の中で本当に求 めていたもの、自分でも知らぬまま求め続けていたものが何であったかを、彼女は主 イエスとの対話の中で気づきはじめるのです。彼女の中に隠されていた、人間の真実 の求め、神への飢え渇きが、少しずつ姿を見せはじめるのです。  もっとも、彼女はまだ「活ける水」の意味を十分に理解できていません。その証拠 に14節に「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、 わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるで あろう」と主イエスが語られたとき、彼女は「主よ、わたしがかわくことなく、また、 ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」と申しています。あ なたはそんなに便利な水をご存じなのですか。それなら、人目を避けて日中に水汲み をせねばならない、そんな私の惨めさを救うために、ぜひその在り処を教えて下さい と願うのです。彼女の思い、彼女の求めは、なお物質的な次元から離れてはいないの です。  私たちは、そのような彼女を笑うことはできません。むしろ、私たちとこの女性の 姿はこの場面でこそ重なり合うのです。私たちはこの女性より、主イエスについて多 くの知識を持っているかもしれません。しかし、主イエスについて知識を持つことと、 主イエスを信じることとは違います。そもそも私たちは主イエスに対して、何を求め ているのでしょうか。私たちこそこの女性以上に、主イエスに向かって自分の幸福の みを求め、自分の利益だけを期待し、自分の思いどおりにならなければ腹を立てるだ けなのではないか。あるいは、そのような状態よりもっと悪いことに、主イエスに対 して何も期待しない、主イエスに率直な願いをさえ打ち明けない、いわば“洗練され た形式的信仰”に陥っていることはないでしょうか。  主イエスは、この女性の愚かで的外れな求めさえ退けたまわないのです。それどこ ろか、彼女の、およそ不器用で無遠慮な願いを、あるがままに御手に受け止めて下さ るのです。ちょうど幼子の親が、わが子の口から出る拙い言葉を、何よりも尊いもの として喜ぶように、主イエスは私たちの愚かな心から迸る、ときに余りに自分勝手な 願いをさえ、それを喜んで御手に受け止め、励まして下さるのです。「駄目だ、あなた は何も分かっていない」と退けるのではなく「そうだ、そうだ、よく、そこまで分か ったね。さあ、もう一歩前に踏み出してごらん」と、私たちの心の奥行きを拡げるよ うに、福音の御言葉をもって、まことの神へと導いて下さるのです。私たち自身も気 がつかずにいた、人間としての本当の求め、本当の願いに、気づかせて下さるのです。  主イエスは言われます。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、 わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与 える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。私 たちこそいま問われています。私たちこそ、今朝の御言葉のこの女性以上の熱心さを もって、「活ける水」を主イエスに求めているでしょうか。主が私たち与えたもう水は、 私たちの中で「泉」となるのです。私たちの生活と人生の全体が、キリストの生命に 満たされたものとなるのです。この「活ける水」に潤される生活を、私たちはいま、 飢え渇くように求めているでしょうか。 むしろ私たちのほうこそ、大切なものが見えずにいることはないでしょうか。この 女性は、主イエスの御言葉に促されるように、御言葉の深みへと入ってゆきます。信 じない者ではなく、信じる者に変えられてゆきます。彼女は私たちに先んじて、主イ エスの恵みの中に踏込んでゆきます。主イエスについての知識ではなく、主イエスを 「救い主」と信じ告白して、主の教会に連なる喜びへと進んでゆきます。誰に求めて も、どこを捜しても、決して得られなかった魂の平安が、罪からの救いが、主イエス にあることを信じ告白する者として、主イエスに連なって歩む、新しい生活が始まっ てゆくのです。  いま、ここに連なっている私たち一人びとりにも、そのような信仰の生活(教会生 活)の喜びと幸いが、今朝の御言葉を通して、豊かに与えられているのです。あなた もまた、わたしが与える「活ける水」を受けるその人だと、主イエスははっきりと告 げていて下さるのです。スカルの女性の魂を根底から揺り動かし、福音による新しい 生活に導いた主の御声が、いま私たちにも届いています。まさしく、主はあなたに語 りかけておられるのです。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことが ない」と。永遠に、死を超えてまでも、私たちを潤し続ける「活ける水」が、キリス トの恵みの真実が、主イエスの御手から、主の教会を通して、私たち一人びとりに、 そして、全ての人々のために、差し出されているのです。それを「受けよ」と、主は 招いておられるのです。  思えば、キリストはまことの神、天地万物の創造主と等しいおかたです。そのおか たが、社会の片隅で飢え渇いたまま蹲っていた一人の女性に「水を飲ませてください」 と、一杯の水を所望されたことに、私たちは驚かざるをえません。一杯の水に渇くこ とは人間の弱さの極みです。それならば、その弱さの極みの中でこそ、主はこの女性 の飢え渇いた魂に連帯して下さいました。滅びへと向かう彼女の存在の重みを、その ままに御手に受け止めて下さったのです。神と等しくあられるキリストが、そのいっ さいの栄光を捨てて人となられ、私たちを罪から救うために、恥辱にまみれた十字架 への道を歩んで下さったのです。御自分の生命を献げて、罪によって神から離れ、滅 びの道を辿っていた私たちを、その根底から支え、限りない愛をもって、私たちの罪 を贖い、「失われていた」私たちを尋ね求め、見出して下さったのです。「活ける水」 とは、この十字架の主イエス・キリストの救いの恵みにほかならないのです。  神を求めてやまぬ彼女の飢え渇きを、彼女自身も知らずに過ごしていた人間として の真実の求めを、見出させて、満たして下さるために、まず主イエスご自身が、彼女 に向かって渇きを訴え、御自身の「弱さ」を顧みることを求めて下さった。そのよう にして、彼女の堅く閉ざされた心を開いて下さり、そこに深く潜む渇きの心を、嘆き の涙を、そのあるがままに、御手の内に受け止めて下さり、御自身の恵みの「活ける 水」をもって充たして下さったのです。  今朝、あわせて拝読した詩篇第1篇の御言葉も、まさしくキリストに贖われ、キリ ストの教会に結ばれた者の、喜びと祝福の人生を告げています。「このような人は流れ のほとりに植えられた木の、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、その なすところはみな栄える」。私たちはスカルの女性と共に、まさに、この“生命の流れ” である主イエスのもとに連なっているのです。このかたから「活ける水」、罪の贖いと、 赦しと、新しい生命とを賜わって、世の旅路へと、それぞれの人生の持ち場へと遣わ されてゆく。そこに、私たちの思いをはるかに超えた幸いがあり、自由があり、まこ との平安があることを覚えて、信仰の歩みを全うして参りたいと思います。