日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
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Hayama Presbyterian Church

祈祷会「雅歌」講解12

中村健一牧師

雅歌2章2節

おとめたちのうちにわが愛する者のあるの は、いばらの中にゆりの花があるようだ。

これは雅歌のなかで最も印象的な御言であり、 私たちにとっても親しい御言であるかもしれま せん。というのは、ゆりの花というものは、お とめマリヤがゆりの花にたとえられるように、 信仰をゆりの花に象徴する習慣を、私たちはも っているからです。

「おとめたちのうちにわが愛する者のあるの は、いばらの中にゆりの花があるようだ」とあ ります。英語の欽定訳聖書では、これが語順が 逆になっているのです。直訳しますと「いばら の中にゆりの花があるように、見よ、おとめた ちの中にわが愛する者がある。」少しニュアンス が違うかもしれません。いずれにしても、いば らの中にゆりの花が咲く。それはおとめたちの 中に愛する者があるようだというのです。私た ちは主イエス・キリストをゆりの花にたとえる ことがあります。たとえば、讃美歌512番には、 “わがたましいのしたいまつる イエスきみの うるわしさよ”とあり、イエスさまのことを“あ したの星か、谷のゆりか、なにになぞらえてう たわん”そして“きみは谷のゆりあしたのほし うつし世にたぐいもなし”と歌われています。 つまり、主イエス・キリストのことを谷のゆり にたとえているわけです。

しかし、ここで“ゆり”といわれているのは、 私たちのことなのです。おとめマリヤのことを ゆりの花にたとえるように、信仰者をゆりの花 にたとえているのです。「わが愛する者」と呼ん でくださるのは、主なる神御自身です。罪によ って背いた私たちを、主なる神御自身が御子イ エス・キリストの贖いによって赦してくださり、 主イエス・キリストを信じる信仰によって義と してくださった。その恵みをもって、主なる神 御自身が私たち一人一人を「わが愛する者」と 呼んでくださるのです。「おとめたちのうちに」 とあるのは、もろもろの民の中で、というふう に訳すことができます。諸国の民の中にわが愛 する者がある。それはまことにいばらの中にゆ りの花が咲いているようだというのです。いば らというのは砂漠の中にあります。本来咲き得 ないところに、水の無い所に、ゆりの花が咲く ということではなくて、実際イスラエルではゆ りの花が砂漠の中で咲く種類があるのです。そ れをヘブライ語では、スザーンと言います。「ゆ り」という意味です。これを複数形にするとス ザンナになります。英語でスザンナという名前 の女性がいますが、これはヘブライ語の「ゆり」 という言葉からきているのです。

ゆりを上から見るとダビデの星の形をしてい ます。クリスマスツリーの一番上につけるのが ダビデの星です。イスラエルの国旗に、このダ ビデの星があらわされていることは御存知だと 思います。星は暗闇の中に輝きます。その輝き が失われることはありません。ですから谷のゆ りが砂漠の中に美しく咲くように、信仰者は暗 い闇に中にあって星のように輝き、その輝きは 主なる神の栄光の輝きを映すものとされている ことにより、主なる神の恵み、神の栄光の輝き を私たちはあらわす者とされているということ なのです。それで、私たち信仰者がゆりまたは 星にたとえられているのです。

主は私たちを極みまでも愛し、滅ぶべき私た ちの滅びを担って十字架にかかって死んでくだ さいました。その死によって私たちの罪を贖っ てくださいました。ヨハネはヨハネ第一の手紙 4章11節において「ここに愛がある」と語って います。「愛する者たちよ。神がこのようにわた したちを愛して下さったのであるから、わたし たちも互に愛し合うべきである。」互いに愛し合 うなら、そのことによってあなたがたが主の僕 であることをすべての人が知るようになるであ ろう。大いなる約束が語られているのです。  私たちは、いばらの中に咲く、砂漠に咲くゆ りの花にたとえられて、そのような者にされて いるのだということを、感謝をもって覚え、い よいよ主なる神の御名を讃美し、御言葉に従う 僕であり続けてゆきたいと思います。