日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
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Hayama Presbyterian Church

祈祷会「雅歌」講解11

中村健一牧師

雅歌2章1節

わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。

ここにはシャロンのばらと谷のゆりという二 つの植物がでてきます。「シャロンのばら」とい う言葉は、旧約聖書、新約聖書の中に、この雅 歌2章1節だけに記されているのです。それど ころか、「ばら」と訳された言葉は、旧約聖書の 中で2か所しか用いられておりません。もう1 か所は、イザヤ書35章1節に「サフラン」と 訳されております。「ハバシェレイト」という同 じヘブライ語ですけれども、イザヤ書ではサフ ランと訳され、この雅歌2章1節では「ばら」 と訳されています。バラとサフランとは植物学 的にいっても、ぜんぜん違う種類ですが、共通 点があります。それは、春一番に咲く花だとい うことです。だからサフランのほうが植物学的 には当っているのかもしれません。実際にイス ラエルではバラ科の植物で春一番に咲くものも あります。たとえばアーモンドなんかがそうで す。旧約聖書で「アメンドウ」と訳されている ものがそれです。私たちにとって、花といえば 桜ですけれど、イスラエルで花というとアーモ ンドの花です。ちなみに、リンゴもイチゴもそ うです。桜もバラ科の植物です。私はイスラエ ルで実際に野生のサフランを見ました。水色の サフランでした。荒地の中にぽつんと咲いてい るのです。感動的なほど美しいです。

新島襄という同志社を設立した、キリスト教 教育のために生涯をささげた伝道者ですが、彼 はこういう歌を謳っています。「真理は寒梅のご とし あえて風雪を冒して開く 争わず また 努めず 自ずからしむる 百花の先駆け」これ は五言絶句という漢詩です。真理は冬の寒いさ なかに花を開く梅に似ている。争いもせず、い きみもせず、ごく自然に、寒風の中で咲いてい るけれども、自ずから百花の先駆けをしむるも のだ。真理とはそういうものだ、と新島襄は語 るわけです。

私たちはこのシャロンのばらという御言葉に よって、一つの大きな思いを与えられます。「わ たしは」とあるこのわたしとは何であるかとい うことです。イエス・キリストのことだと思う かもしれません。しかし、雅歌2章1節のこの 「わたし」とは、実は私共のことなのです。私 共が主なる神の前で「わたしはシャロンのばら です、谷のゆりです」とこう言っているのです。 これは私たちにとってたいへん恐縮なことでは ないでしょうか。これは、私たちがキリストに 結ばれて死から命へと甦らしめたものである。 キリストに結ばれて救われた民である、この喜 びをあらわしているのです。植物というのは、 時がくると必ず咲きます。私たちは自分の力で 花開くこと、自らを生かすことはできません。 私たちは、パウロの言うように罪がからみつい た死の体の持ち主にすぎませんでした。しかし、 その私たちを主イエス・キリストが十字架の贖 いによって救ってくださいました。この世界と いう荒野の中で、私たちを百花の先駆けとして くださったのです。それは、救われた罪人のか しらとして下さったということです。救いの先 駆けを告げる僕としてくださったのです。私共 の生涯をとおして、キリストの愛と祝福が世に あらわされ、かぐわしい香りを放つシャロンの ばらとならせていただいている。

谷の百合というのもまさにそうです。私たち は自ずから百花の先駆けをしむるものとならせ ていただいているのです。このことを思うとき に、私たちはただひたすらに十字架の主イエ ス・キリストの御名を崇めるほかはありません。 キリストの御体である教会、この教会に仕える 歩みを大切にしてゆくほかはないのです。そし て世のすべての人々が本当にこの喜びを自らの ものとして持つことを、私たちの心からの喜び とし、祈りとし、伝道の業にいそしみ、励んで ゆく者とされているのです。

荒野は荒野のままではないのです。そこにシ ャロンのばらが咲き乱れる日がくるのです。そ の日は今きている。今は恵みの時、今日は救い の日であると、主イエス・キリスト御自ら告げ ていてくださるのです。