日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
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Hayama Presbyterian Church

祈祷会「雅歌」講解10

中村健一牧師

雅歌1章16〜17節

わが愛する者よ、見よ、あなたは美しく、ま ことにりっぱです。わたしたちの床は緑、わた したちの家の梁は香柏、そのたるきはいとすぎ です。

「わが愛する者」とは、主イエス・キリスト のことです。教会生活の感謝が宣べ伝えられ、 語られています。それは、「わたしたちの床は緑」 とあることです。詩篇の23篇の御言葉を思い 起こすのではないでしょうか。「主はわたしの牧 者であって、わたしには乏しいことがない」そ して詩人はこう歌っています。「主はわたしを緑 の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」 これが「わたしたちの床は緑」といわれている 事柄なのです。つまり主は、教会を通して私た ちに御言葉の糧を溢れるばかりに与えて下さる。 私たちをいつも養い、導き、支え、祝福して下 さいます。「あなたの御言葉が私の道の光であり、 灯火であります」と告白しているのです。「わた したちの家の梁は香柏」とあります。「家の梁」 とは家を支えるものです。柱に対して横に張ら れる梁は、家の重みを受け止めます。それは家 にとってなくてはならぬものであり、教会のこ の柱なる主イエス・キリストに対する私たちの 信仰をあらわしているということができます。 私たちの教会は信仰によって建てられるとき、 主にささげられる香柏となります。これが「わ たしたちの家の梁は香柏」とあることです。「香 柏」と聞くと私たちは一つの国を思い起こしま す。それはレバノンです。このレバノンのヘル モン山のふもとに香柏の森がありました。主イ エスの時代の頃です。今ではレバノン全土にも 香柏は数えるほどしか残っていません。ローマ 時代ローマ軍によって伐採されてしまったから です。香柏は神殿にだけ使われました。強くて 香りがあって、千年もち、優れた材質をもって いるのです。非常に貴重なもので神殿にだけ使 われていました。私共の信仰が神の宮、主の宮 を建てる光栄に、私たちは生きるものとされて いるということです。教会は信仰によって建て られるものである。信仰の失われた教会という ものはあり得ない。信仰のないところに、主の 宮は建てられないということです。

「そのたるきはいとすぎです」と最後にあり ます。「垂木」というのは、今はあまり目にしな いかもしれません。たとえば奈良時代、建築に はこのたるきは非常に重要でした。垂木という のは軒を支える材木のことです。室内にはなく て外に向かってはりだされた材木です。だから いちばん傷みやすいところです。雨、風、直射 日光をまともにうけるところです。五重塔とい うのは庇の部分が驚くほど大きい。その庇の重 量を支えているのが垂木と呼ばれる丸い材木で す。これは私たちの証しの生活であります。信 仰の生活は外に向かってあらわれるものだ。私 たちの歩み、生き方、交わりが外に向かってあ らわれるとき、初めて教会を訪れてくる人々が、 そこに「まことにあなたがたのうちに主がおら れますと告白するに至る。」で、そういう証しの ある教会を私たちが建てているのかどうかとい うことがいつも問われている、求められている のです。それはいとすぎにたとえられる。いと すぎと聞いて、すぐに思い浮かべるのはなんで しょうか。それはノアの箱舟です。ノアの箱舟 は全部いとすぎの木だけで造るようにと、主な る神はお命じになったのです。これは私どもの 具体的な信仰の歩みであり、生活であります。 この箱舟とは、すべての人々を招く神の恵みを あらわしています。いのちへと招く、救いへと 招く神の恵みです。私どもの生活が神の真実に 支えられるものになる時、それは世に向かって あらわされてゆくのです。何をあらわすのか。 キリストの愛の祝福をあらわすのです。それが いとすぎの木にたとえられているわけです。い とすぎもまた、香柏が一番とすれば、それに次 ぐ尊い材木です。信仰が第一です。それに行い が伴います。具体的な生活が伴うのです。そう いう教会が建てられていくこと、そこに神の栄 光が、キリストの満ち溢れる恵みと祝福が、こ の町のすべての人々にあらわされてゆくのです。