日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
三浦郡葉山町堀内1882
046-875-0648

Hayama Presbyterian Church

祈祷会「雅歌」講解6

中村健一牧師

雅歌1章9〜11節

わが愛する者よ、わたしはあなたをパロの車の雌馬になぞらえる。あなたのほおは美しく飾られ、あなたの首は宝石をつらねた首飾で美しい。われわれは銀を散らした金の飾り物をあなたのために造ろう。

ここに雅歌の預言者が「わが愛する者よ」というように主なる神の御言を告げております。「わが愛する者よ」と語りかけ給うお方は主なる神自らです。神は「わたしはあなたをパロの車の雌馬になぞらえる」とお語りになります。「あなた」というのは主の教会に連なり、キリストに贖われた者たちのことをさしています。その者たちはエジプトの王の乗る馬車を引く雌馬にたとえられるというのです。これはたいへん美しい優美な馬でした。エジプトは当時の世界において、この馬を輩出する最も優れた国で、とりわけパロの馬車を引く雌馬は選りすぐりの馬が用いられました。馬が馬車に付けられる時、金具をつけられるわけですが、その金具は非常に精巧に細工された、手の込んだ美しいものでした。雌馬の首に宝石のついた金の飾りがついているのです。

11節の「われわれは銀を散らした金の飾り物をあなたのために造る」というのは、どんなにあなたを祝福しても足りない。聖なる三一の神が言われた、父・御子・聖霊なる神にして唯一なるお方が、私たちのために、銀を散らした金の飾り物を造ると言ってくださるのです。「銀を散らした金の飾り物」というのは、これも私はツタンカーメンの装飾品で見ましたけれども、現代の技術をもってしてもできないほど高度なものだそうです。金だけの飾り、銀だけの飾りなら比較的簡単にできるそうですが、金の飾りに銀を象嵌のように散らす。これは非常に高度な技術であって難しいものだそうです。それを3千年も4千年も昔のエジプトはやってのけたわけです。実際にそれを見ました。錆びひとつありません。当時の輝きのままに残ってます。しかしこの御言葉は何を意味しているかということです。

先ず土台になっているのは金です。それは神の真実を意味します。主なる神自ら御子イエス・キリストを給われたほど真実をもって私たちを愛して下さった。私たちを贖い、ご自身の聖なる教会に招きいれて下さいました。この恵みを金の飾り物にたとえているのです。ならば、そこに散らされた銀は何でしょうか。金は単数形であり、銀は複数形であります。唯一の主なる神の真実のもとに、あなたの銀が散らされているのです。それは何かというと、私たち一人一人の信仰なのです。神の真実に応答する私たちの信仰、さらに言えばキリスト告白なのです。教会はキリスト告白に立つ群れです。いかなる時にも教会は信仰以外のものによって立つことはないのです。さらに大切なことは、その土台は神を信じ、御子イエス・キリストにおいて表された神の真実であるということです。

私たちはパロの馬車を引く雌馬にたとえられている。この雌馬の務めは、ひたすらに運ぶことです。主なる神の祝福を担いゆく。主なる神のお命じになるままにひたすら一筋に歩んでゆくことです。そして銀を散らした金の飾り物は、主なる神の御手から私たちに与えられている。それこそキリスト自らが贖われた栄光の教会の姿。イエス・キリストにおける神の真実のもとに、一人一人が信仰をもって応える。そこに真の教会が建てられてゆく。真の礼拝が献げられてゆく。そして主は終わりの日にその教会を栄光の教会としてご自身の許に迎えて下さる。完成させて下さるのです。栄光の御形における教会の姿を今、信仰告白において具現しつつ形成していく。この地上において主の教会を建ててゆく。その一人一人とされていることを光栄ある恵みとして与えられていることを思わしめられるのであります。

今夕の御言葉は、そのような教会形成の基本へと私たちを近寄らせてゆく、祝福の言葉であると心に深くとめたいと思います。