日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
三浦郡葉山町堀内1882
046-875-0648

Hayama Presbyterian Church

祈祷会「雅歌」講解4

中村健一牧師

雅歌1章7節

わが魂の愛する者よ、あなたはどこで、あなたの群れを養い、昼の時にどこで、それを休ませるのか、わたしに告げてください。どうして、わたしはさまよう者のように、あなたの仲間の群れのかたわらに、いなければならないのですか。

雅歌1章7節は、讃美歌527番のもとになっていることでよく知られています。また昔から親し まれ愛されてきた御言葉の一つであり、雅歌の中でも中心となる聖句であるといえます。

「わが魂の愛する者」とあります。私たちは主イエス・キリスト を愛する信仰に生きているでしょうか。そのことをペテロはペテロ第一の手紙1章8・9節の中でこのよ うに語っています。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、 見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰 の結果なるたましいの救を得ているからである」。私たちは肉眼において主イエスを見ていないことは いうまでもありません。しかし、私たちは信仰により、聖霊の力に導かれてキリストを愛しております。 それは、まず主イエス・キリスト御自身が、私たちが計り知れない罪の中にあったとき、極みない愛を もって愛してくださったというのです。主は私たちを救い、神の民としてくださるために、そして私た ち朽つべき者に永遠の新しい生命を与えてくださるために私たちを限りない愛をもって愛してください ました。その愛によって、主は私どものためにゴルゴタへの道を歩まれ、十字架におかかりになり、葬 られる者となられたのです。それは死が神を支配したかに見えた出来事でした。しかし神は、その限り ない愛によって、御子イエス・キリストをよみがえらせ給うたのです。神の愛が永遠に勝利するその世 界に、私たちは生かしめられているのです。

「わが魂の愛する者よ」とは、まさに主イエス・キリストに対して私たちが語っている信仰告白なのです。 私たちは問います。「あなたはどこで、あなたの群れを養い、昼の時にどこで、それを休ませるのか、 わたしに告げてください。」讃美歌527番でいえば、2節“したいまつるかいぬしよ、いずこの牧場に、 その群れを主はみちびきやしないたまえる”このように主の御旨を確かめているのです。「昼の時」とは、 人生の最も厳しい試練の時という意味です。砂漠の日差しは容赦なく私たちの生命を阻み、その時どこで 群れを育み、休ませ給うのか。緑の牧場、憩いのみぎわに私たちを導いてくださる。それはいつなのですか、 どこなのですか、と問うているのです。「どこで」とは、主が共に在し給うところ、礼拝生活、教会のことです。 教会に結ばれて生きるとき、私たちは永遠の生命におおわれているのです。「どうして、わたしはさまよう 者のように、あなたの仲間の群れのかたわらに、いなければならないのですか」。この主に対して問う者の 問は、今自分自身に向けられています。主が私を贖ってくださり、教会において、私と共にいてくださる。 それがどうして、私はさまよう者のように歩み得ようか。主が贖われた者たちの群れのなかに、その群れを 羨ましげに見つめてさまよう者のように、私はいなければならないとすれば、その私とは何者なのか。それ はあなたの御声を聴き失っているからではないか、というのです。そのような者になってはいないか。いや、 なってはならない。キリストの招きの御声にいつも喜んで従い、主に贖われた者として教会に結ばれた私 であり続けなくてはならない。そのように告白しているのです。

ここに救われた者の喜び、確信が宣べ伝えられています。そして共に 在し給うキリストの愛の確かさが告げられていることを私たちは告げ知らされ、今、私はその群れの外に 歩む者になってはいないか、さまよう者になってはいないか。そして少しでも、そのような者であるならば、 主よ、私を速やかにあなたの御もとに立ち帰らせてくださいますように。ルターの語るように「日々悔い改め をもってあなたに立ち帰る者とならしめてください」という祈りを自らの祈りとなしたいと願うのです。