日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
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Hayama Presbyterian Church

祈祷会「雅歌」講解2

中村健一牧師

雅歌1章4節

あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。

ここはある意味で「雅歌」の中心といってよいところです。 「あなたのあとについて行かせてください」とあるところです。 どなたのあとにか。いうまでもありません。主イエス・キリストの御あとです。

私たち信仰の生活をする者がキリストの御あとに従う生活をする、という点において、 まことにはっきりとした基準を用いることは、キリスト者にとって本当に幸いではないでしょうか。 漠然としたものを信じているのではないのです。私たちのために人となられ、 十字架を担われし神の独り子イエス・キリストを信じ、この方の御あとに従う生活、 それは何よりも主が私たちを招いてくださっておられるからです。 その招きがあってはじめて私たちは主に従う者とされます。

では、その招きの中身は何でしょうか。それは私たちの罪が主の十字架によって贖われたという事実にあるのです。 私たち人間はどんなに努力しても、あるいは修業を積んでも、 そのあるがままの姿で神の御あとに従うことはできません。 それどころか、私たちはあるがままに神の御言葉に背き、神の愛を踏みにじり、 神の招きを聞き得ない頑なな罪深い存在にすぎないのです。

「義人はいない、ひとりもいない」(ロマ書3:10)とパウロが語ったように、この地球上に己の力によって、 神の御あとに、キリストの御あとに従い得る人間は一人もいない。60億人も人口があるとして、驚くべきことに、 ただの一人も神の御旨にかなう人間は存在しないのです。 これが厳然たる人間の事実であり、私たちに与えられている福音の言葉、 福音の真理による私たちの本当の姿なのです。 しかしその、私たちの計り知れない罪を主は十字架において贖い、私たちを真の神に立ち帰らせてくださいました。 そして御言葉によって歩み、御言葉に満たされて生きる僕としてくださったのです。

私たちが洗礼を受け、キリストに連なり、キリストを信じて教会に連なって歩む、 その時に罪の赦しを受けることができるのです。それはキリストの御招きに従い得なかった者が、 御招きに従う者とされること、これに勝る本当の自由はありません。

「わたしたちは急いでまいりましょう」と言います。それこそいそいそと喜びをもって主の御あとに従う、 主にお仕えするのです。主に仕えるその志をもって私たちは教会に仕えます。ここにいきなり「王」という 言葉がでてきます。この方は私たちの罪の贖い主、全世界の罪の唯一の救い主であられる故に「王の王」と 呼ばれるのです。この方がわたしをその部屋に連れて行かれた。そのへやというのは、神の国のこと。 神の愛と恵みの永遠の御支配のもとに私を捕え移してくださったのです。私たちはあなたによって喜び楽しみ、 贖い主なる主に招かれ、主に従う歩みの中にこそ永遠の喜び、本当の楽しみがある。

そしてぶどう酒に渇きをうるおす。飽きるぶどう酒よりはるかにまさる本当の生命の糧。 十字架の主のもとに私の生命の糧があります、と告白しているのです。「あなたの愛をほめたたえます」 これは礼拝です。神の限りない愛、永遠の愛を私たちはほめたたえるのみです。ほめたたえるとき、 その愛に満たされ、その愛によって生きる僕とされてゆくのです。その愛は教会の外にもあらわれて、 伝道の生きた力となって働くのではないでしょうか。

初めて礼拝に来た人たちがそこで何をみるのでしょうか。 それは、まさに神の永遠の愛をほめたたえる者たちの姿です。 パウロはその経験を、真に喜びに満ちた言葉でこのように語っているのです。 コリント 14章23〜25節「もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、 初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたを気違いだと言うだろう。 しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、 みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、 『まことに、神があなたがたのうちにいます』と告白するに至るであろう。」 不信者は、生まれて初めて礼拝に来た人。初心者は、教会からいったん離れたが再び戻って来た人。 いずれにしても幸いなことではないでしょうか。礼拝の場で預言がなされている。 御言葉で鍛えられている真の礼拝に触れます。

私たちは、神の民とされた喜びのうちに、すべての人々が招かれていることを知り、伝道の業に励まされるのです。 私たちはそこにいそいそと仕えてまいりたいと思うのです。十字架の主のうちに永遠の喜びと楽しみを見出す。 そしてあらゆる飲み物にまさる生きた糧をそこに見出すのです。

あなたの愛をほめたたえる。この姿を通して、真の礼拝を通して、不信者も初心者も、 共に神をほめたたえる喜びに満たされ、救いの御業にあずかる者とされるのです。

「おとめたちは真心をもってあなたを愛します」。おとめたちとは、教会のことです。 教会はすべて主の贖いたまいし教会、すなわち、そこに連なる私たちが真心をもってあなたを愛します。 この真心とは魂です。私たちは魂をもって主なる神を愛し、 主なる神に仕える僕とされてゆくのではないでしょうか。 そこに私たちの本当の幸い、喜びがあり、真の礼拝がささげられ、そこに連なる人々が、 真の救いにあずかることができるのではないでしょうか。

雅歌1章4節は、その喜びと幸いを、私たちにはっきりと鮮やかに伝えているのです。