日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
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Hayama Presbyterian Church

祈祷会「雅歌」講解1

中村健一牧師

雅歌1章1〜3節

「雅歌」という名前は、雅やかな歌と書きます。しかし、この「雅」というのは、私たちが思うような優雅な天界ということとは少し違います。雅歌のことを、英語の聖書では、ソング オブ ソングズ、「もろもろの歌の中の真の歌」というふうに言い表しています。

今から1900年前、ユダヤ教のもっとも偉大な学者として今も尊敬を集めているラビ、アキバ・ベン・ヨセフという人が雅歌についてこのように語っています。「聖書のすべての書物は、聖所である」。神が我らに出会ってくださる場所である。中でも雅歌は至聖所である。いちばん清い神聖な書物、それが雅歌である、と語っています。旧約聖書のすべての書物は、聖所にたとえられるけれども、中でも雅歌は、大祭司のみが入ることを許されるもっとも聖なる場所にたとえることができる。

私たちはその言葉に、人間の思いではなく、神の聖なる御言葉のみを聴く。そのようにラビ、アキバという人は語っているのです。

1節をごらんください。ソロモンの雅歌とあります。「ソロモンの雅歌」となぜ名付けられているか、はっきりとした答えは今は見失われています。よくわからないのです。ソロモンに由来するものでないことだけは確かです。しかし「ソロモンの雅歌」と敢えて呼ばれています。これはなぜなのか。その答えは、ソロモンがキリストの家系の中の一人であることにある。つまり、ソロモンの雅歌というこの言葉によって、「雅歌を歌った預言者」キリストを証しする伝道者は、この雅歌がキリストの極みなき愛を物語る神の聖なる御言葉であることを明らかにしているのです。

2節を見ますと、このようにあります。『どうかあなたの口の口づけをもって、わたしに口づけして下さい』

神に口づけされること、主に口づけしていただくこと、それは、主に抱擁されることでありましょう。まさしく主が我らにもっとも近くあられ、そして我らを極みなき十字架の愛をもって愛し給う出来事、あの十字架の出来事を私たちに思い起こさせるのではないでしょうか。ですから、この口づけというのは、神聖な、私たちに畏怖を抱かせしめる神の愛があらわれているのです。だからこそ、「あなたの愛は、ぶどう酒にまさり、あなたのにおい油はかんばしく、あなたの名は、注がれたにおい油のようです」と歌われているのです。

ぶどう酒は、イスラエルでは大切な毎日の飲み物でした。今でもそうですが、イスラエルは水が乏しい国です。水道の水は石灰分を多く含んでいて飲むことができません。ぶどう酒といっても、私たちの知っているワインとちょっと違うのです。半発酵したブドウジュースと考えてください。だから幼い子どもでも飲むことができるのです。私も飲みましたけれど、甘くてとてもおいしいものです。これはいわば、生命の糧です。雅歌の預言者は、「イエス・キリストにおける神の愛こそ、私たちの生命の糧の中の唯一の糧である。雅歌が、神の愛がもろもろの歌の中の唯一の歌であるように、あなたの十字架の愛こそあらゆる糧の中の唯一の食物である。私たちを潤し、私たちの渇きを潤し、生命を与える」と語っているのです。

3節に「におい油」という言葉が出てきます。私たちはすぐに「ナルドの油」を思い起こします。このナルドの香油というものは、王の即位において頭に注がれたということを思い起こします。パリサイ人シモンの家に主イエスがおられた時に、その町で「罪の女」というレッテルをはられた一人の女性が、キリストによって救われた感謝をあらわしたく思い、命がけでシモンの家に入ってきて、自分の涙で主の御足を洗い、その髪の毛で拭き、そしてナルドの香油をささげた。その出来事を思い起こします。なにより「あなたの名は、注がれたにおい油のようです」というのです。あらゆるナルドの香油にまさって、あなたの御名を香り高く、私たちを神へと導く香りである、キリストの香りである。これが、ここに記されている、におい油です。

「それゆえ」とあります。この出来事のゆえに、まず、ソロモンの雅歌といわれている、この御言が、キリストの十字架の主イエス・キリストをさし示す御言であり、キリストが私たちに口づけしてくださるごとく、最も近くにおられる。私たちをかき抱くように、御自分のみもとに引き寄せてくださる。私たちの全存在を十字架をもって贖いとってくださったこの方の愛にまさる糧は存在しない。そしてこの方の香りが私たちをまことの神へと導く唯一の香りであるのです。それゆえ、おとめたちは、キリストの「おとめ」とは、教会です。もろもろの教会、主が贖われた唯一、聖なる公同の使徒的なる教会があなたを愛するのです。そのように高らかに歌うのです。

讃美歌527番は、雅歌に基づいた讃美歌であることを覚えておくと理解が深まると思います。特に2,3番は1章7節に基づいています。

十字架の主こそ私たちの永遠に変わらぬ喜びであり、失望に終わることのない真の望みであられ、私たちの生命であられます。この方を昼も夜も私たちが讃美告白してやむことはありません。私たちの全生活が神讃美の生活とされてゆく。そのために「雅歌」は私たちにとって、あらゆるぶどう酒にもまさる生命の糧となって、私たちの心を潤し、まことの神へと導く聖なる「言葉」、至聖所そのものとなって、私たちを養うのであります。そしてそのように主なる神を讃美告白して、私たちはなお足らない、なお足らないと思うのです。しかし私たちは安心してよいのです。この「雅歌」を学ぶことにおいて、ここにこそ、あらゆる讃美告白にまさる本当の讃美告白、唯一の聖なる至聖所にもたとえられる讃美歌が記されている。讃美歌の歌詞がここにあるということを知らしめられているからです。

(2010年8月13日)